下大久保村(読み)しもくぼむら

日本歴史地名大系 「下大久保村」の解説

下大久保村
しもくぼむら

[現在地名]鈴鹿市下大久保しもおおくぼ町・花川はながわ

鹿間しかま(現四日市市)と接する台地上の集落。北を内部うつべ川が、村域内を鈴鹿川支流の浪瀬なみせ川が流れる。当村は八キロ西北の鈴鹿山麓の大久保村から分れたとの伝承がある。江戸時代を通じて亀山藩領。延宝四年(一六七六)戸数七四(うち本役三〇・無役四四)、人数四〇四、馬六、牛三三。享保一五年(一七三〇)家数一二六、人数五七二、馬七、牛五六。


下大久保村
しもおおくぼむら

[現在地名]大沢野町下大久保

大沢野中位段丘の北部に位置し、北は栗山くりやま(現富山市)、南は上大久保村。一帯はかつて塩野大窪しおのおおくぼとよばれた地域で、「御城下より南の方三里、塩野という南北二里、東西一里の小松原あり、中程に大久保村とて茶屋二軒、百姓家五軒許りの小村あり」と記され(越中史料)飛騨街道の小休止をする小村であった。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡に塩野大久保とあり、屋敷高三石・免一ツ五歩、銀納畑五千二〇七歩・銀納林三〇〇歩とある。富山藩の財政救済のため寛保元年(一七四一)頃から塩野の新田開発が企てられた。開発の決め手となるのが大久保用水の開通で、文化一〇年(一八一三)富山商人岡田屋嘉兵衛(三輪日顕)により幅三間に拡幅されて完成した。


下大久保村
しもおおくぼむら

[現在地名]鹿沼市下大久保

足尾あしお山地の山間にあり、大芦おおあし川が西から東に流れる。川下は引田ひきだ村、川上は上大久保村。古峰ふるみね神社へ通じる道が川沿いに走る。江戸時代初頭は上大久保村と一村。慶安郷帳では大久保村とみえ、田一石余・畑三六六石余でほとんどが畑。寛文六年(一六六六)検地帳(橿渕義雄文書)には下大久保村と記され、この頃までに上下二村に分れた。元禄郷帳では下大久保村の高二四二石余。寛永一二年(一六三五)から阿部重次領、慶安元年(一六四八)武蔵岩槻藩領。明暦元年(一六五五)日光領となり、幕末に至る。日光領として御宮・御霊屋の御用葉唐竹を年五回納めている(日光山森羅録)。天保元年(一八三〇)上・下の大久保村で日光奉行所から金一千両を借りている(「御貸付金記立書」笹沼修文書)


下大久保村
しもおおくぼむら

[現在地名]浦和市下大久保

上大久保村の西、荒川の自然堤防地帯に位置する。中央をかも川が貫流する。西は荒川を挟んで入間いるま宗岡むねおか(現志木市)南畑なんばた新田(現富士見市)。正平七年(一三五二)正月日の高麗経澄軍忠状(町田文書)によれば、観応二年(一三五一)一二月一九日、足利尊氏方の高麗経澄は南畑付近に根拠地をもつ難波田九郎三郎らを当地の「羽禰蔵」(羽根倉)で打破っている。中世には大窪おおくぼ郷に属し、応安二年(一三六九)七月二八日の大窪郷地頭方三分一方田畠注文(正木文書)に当地の諏訪神社とみられる「すはの大明神」がみえる。田園簿では上大久保村とともに大窪村一村で高付され、うち旗本人見領四五石はのちの当村分となる。


下大久保村
しもおおくぼむら

[現在地名]瑞穂町字下大久保

上大久保村の西、土師はぜ川の下流側にある山村。蛇行する土師川が南に湾曲する部分に集落の中心がある。南はおく村、西は細野ほその峠を越えて菟原中うばらなか(現天田郡三和町)、北は猪鼻いのはな村、南方には三郡みくに峠があって船井・天田および多紀たき(現兵庫県)の境をなす。

幕府領、篠山藩領(旧高旧領取調帳)とか、亀山藩領(「京都府市町村合併史」所載廃藩当時領主及石高調)とか記されるが、いずれも一時期であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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