下小坂村(読み)しもこさかむら

日本歴史地名大系 「下小坂村」の解説

下小坂村
しもこさかむら

[現在地名]東大阪市下小阪しもこさか一―五丁目・小阪本こさかほん町一丁目・小阪こさか一―三丁目など

若江郡に属し、北は御厨みくりや村。大和川付替え以後、西の村境を流れていた長瀬ながせ川の水量が減少し、川床が開発されて吉松よしまつ新田となった。建長四年(一二五二)六月三日の藤原康高譲状案(水走文書)にみえる「小坂林壱所」を当地一帯とする説もある。初め北小坂きたこさか村と称していたが、寛永一〇年(一六三三)より下小坂村になった(天保三年「村差出明細帳」肌勢家文書)。天正二〇年(一五九二)には豊臣氏蔵入地であった。代官帥法印歓仲は当村の荒地の開墾を命じ、その間堤普請などいっさいの人足徴発を禁じた。文禄三年(一五九四)から慶長一六年(一六一一)の間に四回用水樋の伏込みを行っている(布施市史)。慶長一二年の検地帳(山沢家文書)があり、同一三年の免状(肌勢家文書)によると同年より片桐且元が代官で、高五六一石・租率六ツ四分取。この検地帳には一人の所有地が畑と田に分れて記され、半田形式の古例を示すものと考えられる(布施市史)。大坂夏の陣の時には当村東の若江村の近くでも合戦があり、当地一帯も戦火に遭っている(同書)


下小坂村
しもおさかむら

[現在地名]下仁田町下小坂

大桁おおげた(八三五・九メートル)の南麓に位置し、村央を東南流するかぶら川沿いに下仁田道が通る。東は梅沢うめざわ峠を越えて南蛇井なんじやい(現富岡市)、東南は下仁田村西北中小坂村と接する。近世はおおむね小幡藩領。寛文郷帳では田方三二石三斗余・畑方三七二石四斗余。文政前後の領内村々書上帳(松浦文書)によると田三町二反四畝余・本新畑合せて五四町一反三畝余、年貢は米二九石八斗余・永一九二貫文余、小物成として真綿一六把・大豆五石余などを納め、猟師鉄砲一三挺を所持した。享保一八年(一七三三)夫食払底のため、三〇軒五九人が合せて麦一〇石六斗余の拝借をしている(「救麦拝借証文」里見文書)


下小坂村
しもおさかむら

[現在地名]川越市下小坂

平塚ひらつか村の西、小畔こあぜ川左岸の低地および台地に立地。高麗こま郡に属した(寛文四年の河越領郷村高帳ほかでは入間郡)。小田原衆所領役帳に小田原衆の松田筑前守の所領として「六拾二貫六百六拾壱文 下小坂」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。慶安元年(一六四八)の検地帳(平野家文書)が残り、田三九町一反余・畑三五町余・屋敷二町五反余、ほかに葭野など三町五反余。田園簿に村名がみえ、田高二一二石余・畑高一三五石余、ほかに野銭永二貫一二文、川越藩領。


下小坂村
しもこさかむら

[現在地名]常北町小坂こさか

西田にしだ川が南部を西から東へ流れ、東は上青山かみあおやま村。川沿いに上小坂村から青山村を経て石塚いしつか村に達する道が通じ、人家道筋に多く、北には山が迫る。古くは小坂村一村であったが、慶長七年(一六〇二)の検地の際に上下二村に分れ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「下小坂村」とみえる。天保年間(一八三〇―四四)再び合併して小坂村一村となる。「水府志料」によると村の東西二二町余・南北六町余、戸数およそ一五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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