小山田村(読み)こやまだむら

日本歴史地名大系 「小山田村」の解説

小山田村
こやまだむら

[現在地名]鹿児島市小山田町

犬迫いぬざこ村の北に位置し、甲突こうつき川が流れる。日置郡に属した。東は比志島ひしじま村、北は郡山こおりやま川田かわだ村・東俣ひがしまた村・郡山村(現郡山町)。中世は満家みついえ院のうち。満家院の院司職を有した加治木氏の系図(加治木町立図書館蔵)によると、加治木親平は子息資宗に小山田などを譲り、将軍家下文を得たという。資宗は子息幸光(幸満)に譲ったが、幸光は承久の乱の時に京方について没落し、跡を税所兵衛尉祐満が得たという。祐満の後、義祐・敦秀(篤秀)・敦胤(篤胤)が相伝したとされる。また義祐の子童名弥陀増(四郎)が小山田村の田地を少々有したという(「税所氏系図抄」国分郷土誌)。建長五年(一二五三)七月一〇日の法橋栄尊譲状(比志島文書)に「小山田内上原薗一ケ所」とみえ、太郎佐範に譲られている。栄尊は比志島氏の祖重賢で、宝治元年(一二四七)三月一一日に比志島、河田かわだ・西俣・城前田じようまえだ(現郡山町)および上原うえはら薗の五ヶ所の名主職を譲られた(寛元五年三月一一日「比丘尼菩薩房譲状」同文書)。上原薗は小山田のうちに比定され、比志島氏の五ヶ所根本所領の一つで、中世末期に至るまで惣領の譲状にみえる(同文書)。建治三年(一二七七)五月一〇日、幕府は満家院郡司税所義祐から訴えのあった当村内作田の作毛を、地頭島津道仏後家尼の代官子息長久が郡司名内と称して刈取ったことなどに関し、事実関係を調査・報告するよう命じている(「関東御教書」町田氏正統系譜)


小山田村
こやまだむら

[現在地名]宮古市小山田・宮古

閉伊へい川の南岸にあって、川を挟んで宮古村および千徳せんとく村に対する。元亨四年(一三二四)一一月二三日の関東下知状案(宮古田鎖文書)によれば、閉伊三郎左衛門尉光員の遺領の一つであった当地が光頼に分譲されている。鎌倉時代中期にはすでに集落が発達、老木ろうき田鎖たくさりなどとともに閉伊氏の所領であったことが知られる。建武元年(一三三四)のものと推定される閉伊親光言上状(盛岡南部文書)にも、同じく小山田の名があり、当地は北畠顕家によって閉伊親光に安堵されている。南の山中には古館があり、本館は判官はんがん館とよばれたが、いまは破壊されて、わずかにその砦跡の一部が残る。閉伊氏の臣小山田某の居館であったと伝える。慶長一七年(一六一二)九月二四日の南部利直川鮭請取状(宮古三浦文書)にみえる瀬主小山田氏はこの館主の末裔であろう。中世、閉伊の南北を結ぶ道は八木沢やぎさわから猿楽さるがく峠を越えて小山田に入り、川を渡ってよこ山の裾をめぐり笠間かさまを過ぎて北、あるいは西に向かった。


小山田村
こやまだむら

[現在地名]加治木町小山田

高井田たかいだ村の北東に位置し、村内中央を南流する網掛あみかけ川に龍門りゆうもん滝上流で崎森さきもり川が合流する。同村の竜門司たつもんじ坂から続く大口筋が村内を南北に走る。中世は加治木郷のうちにあった。応永二〇年(一四一三)一一月一五日、島津久豊は「大隅国竹子・小山田村」を正八幡宮(現鹿児島神宮)に寄進した(「島津久豊寄進状」旧記雑録)。加治木家系図(加治木町立郷土館蔵)によれば、加治木氏五代資光の弟資頼の項に小山田と号し、子がなかったことから小山田村を正八幡宮執印行賢に譲ったので神領となったという記述がある。これを傍証する史料はないが、前掲久豊寄進状に「往古神領」とあることに関連するかもしれない。


小山田村
おやまだむら

[現在地名]高岡町小山田

花見はなみ村の南、高浜たかはま村の南東にある。北東を赤江あかえ(大淀川)が流れる。薩摩街道の高浜筋が高浜村より南下し、南東の上倉永かみくらなが村へ向かう。戦国期の伊東氏の神社領支配の内容を示す弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)には、代官が格護する小山田八幡(現穆佐神社)大宮司分として「小山田」六〇町のうち田一町二反三〇がみえる。天正一六年(一五八八)前後から穆佐むかさの地頭であった樺山規久は、小山田一六町を給地として与えられていた(「樺山紹劔自記」旧記雑録)。ただし諸郷地頭系図に樺山規久の名は記されていない。天正年間に通用した日向国五郡分帳には宮崎郡として小山田一六町がみえる。

近世は穆佐郷の麓村で地頭所が穆佐城麓に置かれた。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳では表高八一〇石余。


小山田村
おやまだむら

[現在地名]河内長野市小山田町・北貴望きたきぼうおか南貴望みなみきぼうおか千代田台ちよだだい町・まつ丘西おかにし町・まつ丘中おかなか町・くすのきひがしくすのき西にしみどりおかきた町・なか町・みなみ町〉・昭栄しようえい町・寿ことぶき

上原うわはら村の西にあり、北は茱萸木くみのき新田(現南河内郡狭山町)からの道で大野おおの新田(現同上)、西は和泉国。おおむね低い丘陵で、西部は天野谷が南北に延びる。奈良時代の火葬墓とされる小山田一号古墓・二号古墓があり、一号古墓からは蔵骨器が出土した。治承四年(一一八〇)八月日付源貞弘山野田畠寄進状案(金剛寺文書)の四至書に「東限小山田領」「北限小山田境」とみえる。


小山田村
こやまだむら

[現在地名]鹿島町小山田

大日だいにち川上流域に開け、東は岡和田おかわだ村・牛河内うしこうち村、南は小池こいけ村。山下やました村から連なる小丘陵上および南斜面に高塚古墳や横穴墓群が点在する。永仁二年(一二九四)八月二二日の関東下知状(相馬岡田雑文書)によると、相馬胤村の遺領である「小山田」、堤谷つつみがい(現原町市)など三ヵ村の領知が安堵されているが、これは師胤(胤村の五男)の子息重胤に対してのものとみられる。建武二年(一三三五)一一月二〇日には、「こやまた」などの所領が重胤から子息親胤に譲られている(「相馬重胤譲状」相馬文書)


小山田村
おやまだむら

[現在地名]大河原町小山田

新寺につてら村の東にあり、東方は西方山間部に源を発する新堀しんぼり川の氾濫原で、残る三面は丘陵地。東は福田ふくだ村、北は沼田ぬまた(現村田町)。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「八〆七百文 をやまた」とみえる。同二二年集成の晴宗公采地下賜録によれば、同一一年六月までの薄木隼人知行地のうち「小山田のかう、竹の内在け」を除き、同千代鶴丸への相続が認められ、「を山たの内、たけの中在け一けん」などが小山田右馬允に与えられている。天正一六年(一五八八)、政宗の家臣で小山田館主である小山田筑前頼定は、大崎合戦の軍奉行として出陣、中新田なかにいだ(現加美郡中新田町)攻めで戦死し、小山田城は廃絶した。


小山田村
こやまだむら

[現在地名]西木村小山田

檜木内ひのきない川中流西岸、山地が迫り平地は狭く、本村のほか支郷が散在する。南は川原かわら村・山谷川崎やまやかわさき村(現角館かくのだて町)、西は河辺郡船岡ふなおか(現協和町)岩見いわみ(現河辺郡河辺町)に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に六四七石とある。享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)に当高合計六八六石九斗四升四合とあり、本田高五八九石六斗九升三合、免六ツ五歩、新田当高四八石余である。本村は家一三軒、支郷は高野たかの村・赤岩村・山志ない村・館野下村・沢口さわくち村・堀野内ほりのうち村・小原木おはらぎ村・中村・林崎はやしざき村・八ツ村・鎌足かまたり村で家六二軒。


小山田村
こやまだむら

[現在地名]五色町鮎原小山田あいはらこやまだ

鮎原西あいはらにし村の南西、せん山山系の西向いの丘陵地帯の一角にある。正保国絵図に村名がみえ、高二七七石余。天保郷帳では高三〇四石余。反別戸数取調書では反別二八町六反余、高三五三石余、うち一〇石余が蔵入地、二八八石余が中村主馬助ら三名の給地。家数七〇・人数三八九。庄屋は土井家(現高見家)が勤めていた。元禄五年(一六九二)には北谷組、宝暦一〇年(一七六〇)および近世後期には鮎原組に属した(宝暦一〇年「淡州津名三原両郡郷村御帳」佐野家文書など)


小山田村
おやまだむら

[現在地名]四日市市山田やまだ町・内山うちやま町・西山にしやま

八王子はちおうじ村の西南方、山田村・南山田村ともいう。鎌谷かまたに川の左岸にあり、村の北は低い丘陵。鎌谷川の対岸に六名ろくみよう村がある。「神鳳鈔」に「二宮一名南宮小山田御厨上分田六丁、内三石九斗、外三石」とある。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写では「四拾八石五斗 守基家料 五斗守是職田 小山田きした中村」と出る。江戸時代を通じて菰野藩領。「菰野雑記」(三重郡菰野町野呂家蔵)によれば戸数二五五、人数は男五九五・女六一〇の計一二〇五。


小山田村
おやまだむら

[現在地名]北条市小山田

立岩たていわ川に合流する小山田川流域の山村。東は儀式ぎしき村、南は猿川さるかわ村・猿川原さるかわら村、西は尾儀原おぎわら村・萩原はぎわら村、北は西山にしやま村・中川なかのかわ(現越智郡菊間町)に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「小山田村 林山有、芝山有」とみえ、村高は三五〇石四斗八升一合、うち田方二六五石四斗一合、畑方八五石八升とある。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記、天保郷帳でも同じ村高。

古くは難波なんば郷の属村であった。村の歴史は不詳であるが、中世の城が散在する旧立岩たていわ地区南部と現越智おち菊間きくま町の中間に位置していること、坊田ぼうだ寺谷てらだにの地名の残存するところから、寺を中心にした集落が形成されていたことが推測される。


小山田村
おやまだむら

[現在地名]久留米市草野町草野くさのまちくさの

草野町の南、発心ほつしん山北麓に位置する。本高は一五七石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二一〇石・役高一三四石。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗七升、人数五〇、馬五(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一三〇石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田六町八反余・畑田八畝余・畑三町五反余・開畠八反余・居屋敷一反余。同じ頃の本地高一七一石余・物成高五七石余、開高三石余・物成高一石余(「本地開本免帳」中村家文書)。旧高旧領取調帳では高二三八石余。島原の乱に際し、当村から百姓六人が参陣(上野家文書)


小山田村
おやまだむら

[現在地名]吉良町小山田

北は饗庭あいば村、東は乙川おつかわ村、南は富好とみよし新田に接し、西は矢崎やさき川をもって吉田よしだ村と境する。伝説によると、寿永(一一八二―八五)の頃、くりや(現友国)の住人尾崎某がこの地に来住、猪子塚いのこづか村と称した。暦応四年(一三四一)足利尊氏が新田五〇石を築き、その後加藤五郎八が今の天神の地に築いた新田と併せ、現今の形状に至るという。寛正二年(一四六一)領主が神社を小山の上に建立、前の新田を小山田とよんだところからこの村名が生れたという(吉田村史)


小山田村
おやまだむら

[現在地名]米沢市広幡町小山田ひろはたまちおやまだ

上小菅かみこすげ村の東に位置し、鬼面おもの川西岸平地に立地。鬼面川扇状地の湧水線にあたり、長清水ながしみず鈴振すずふり清水と称される湧水地があり、集落を潤している。天文七年(一五三八)の段銭古帳によれば、上長井庄「をやま田」から二四貫二〇〇文を納めたが、うち二貫二〇〇文は中館へ納めている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、小山田郷のうちで、萱場左馬助が萱場内蔵助分と「松のき在け」を与えられ、中村刑部少輔が小山田郷を同一一年六月までの知行のとおり(棟役・田銭免除)安堵されている。


小山田村
おやまだむら

[現在地名]五泉市小山田

阿賀野川の形成した扇状地が菅名すがな岳の裾と接した緩傾斜の台地に位置し、南は切畑きりはた村、北は小栗山おぐりやま村に接する。近世に入って小河川沿いの低地へ向かって開発が進められたところとみられる。正保国絵図に村名があり、村上藩領であった。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では笹堀組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高一九〇石七斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)では高三四六石八斗余に増加する。天保元年(一八三〇)沼津藩領となり、安政二年(一八五五)の沼津領村々明細書上帳(五泉郷土史)によると高二四九石一斗余(田高一三二石八斗余・畑高一一六石三斗余)、反別四二町六反余(田一二町一反余・畑三〇町五反余)、家数三八(本百姓三六・水呑二)、人数一八〇(男八四・女九六)


小山田村
おやまだむら

[現在地名]いわき市山田町やまだまち

さめ川とその支流の山田川に挟まれ、北は下山田村、西は井上いのうえ村、東は林崎はやしざき村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄郷帳では棚倉藩領で、以後幕末まで続く。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高三九八石余。正保郷帳では田方六三〇石余・畑方一九五石余。


小山田村
おやまだむら

[現在地名]古賀市小山田

犬鳴いぬなき山の北西、西にし山の西麓に位置し、西は川原かわばる村。弘安九年(一二八六)閏一二月二八日の蒙古合戦并岩門合戦勲功地配分注文(比志島文書/鎌倉遺文二一)によれば、薩摩前司入道尊覚に「筑前国小山田村金口六郎左衛門尉時通跡」が宛行われている。文明一〇年(一四七八)一〇月日付筥崎宮神事用途注文(石清水文書/大日本古文書四―二)によると小山田には五斗の社役が賦課されているが未納であった。当地が筥崎宮領となった時期や経緯は不明。小早川時代の指出前之帳では小山田村の田一四町二反余(分米一七四石余)・畠五町三反余(分大豆一九石余)


小山田村
おやまだむら

[現在地名]築城町小山田

広末ひろすえ村の南にあり、城井きい川右岸の段丘上に立地する。「宇佐大鏡」所載の宇佐宮大宮司公順処分状案によると、仁平二年(一一五二)伝法寺でんぼうじ庄が立券庄号された際、「小山田浦」が伝法寺庄加納三〇〇余町のうちに組入れられたという。元和八年人畜改帳では家数五一・人数七八(うち百姓一二・名子一七)、牛一八・馬五。


小山田村
おやまだむら

[現在地名]秋田市上北手小山田かみきたておやまだ

大杉沢おおすぎさわ村の半里東の山間の集落。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「小山田村・大杉沢村」とあり、太閤蔵入地。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では大杉沢村の東に小山田の内大山田と記され、小山田村の南に山田村一七八石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には、小山田村三三軒、大山田村一四軒とあり、寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳に小山田村は当高一八八石余、大山田村は八〇石余とある。


小山田村
おやまだむら

[現在地名]いわき市大久町おおひさまち小山田おやまだ

小久こひさ川支流の小山田川が流れ、四方を山に囲まれる。北と東は小久村、南と西は白岩しらいわ村。楢葉ならは郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。


小山田村
こやまだむら

[現在地名]小松市小山田町

西は井口いのくち村、北は津波倉つばくら村に接する丘陵上にあり、村内を山田川が流れる。正保郷帳では高四五九石余、田方二一町二反余・畑方五町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三七〇石、免四ツ二分、小物成は山役二〇二匁、漆役四匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)の家数二一(うち本百姓二〇・孀一)、人数男四五・女四〇、柴一千束を一口として九二口分の持山がある(小松市史)


小山田村
おやまだむら

[現在地名]八郷町小山田

足尾あしお山の東麓にあり、東は鯨岡くじらおか村、北は山を境に狸内むじなうち村。正保―元禄(一六四四―一七〇四)の間に鯨岡村から分村と伝え(新編常陸国誌)、元禄郷帳の村高は一五〇石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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