下山郷(読み)しもやまごう

日本歴史地名大系 「下山郷」の解説

下山郷
しもやまごう

富士川と支流はや川の合流点、富士川右岸の現身延町下山を遺称地とする中世郷。元弘元年(一三三一)と推定される一二月一六日の日静書状(藻原寺文書)によると、元弘の乱に参画した南部彦次郎(実継)が京都六条ろくじよう河原(現京都市下京区)で処刑されたのち、「下山之南方」(波木井郷)が闕所とされた。当郷を本拠にしたのが下山氏で、甲斐源氏秋山光朝の子小太郎光重に始まるという(甲斐国志)。下山氏は永仁六年(一二九八)の白蓮本尊曼荼羅分与帳(興尊全集)に下山因幡房・同左衛門四郎がみえ、次いで元弘三年頃と推定される日興置文(同全集)には下山郷の兵庫五郎光基と、下山郷地頭左衛門四郎光長が登場する。「吾妻鏡」寛喜三年(一二三一)一月一四日条などに登場する下山入道らが当郷出身とは必ずしもいえないが、常陸房日永は下山光基の子で、建治三年(一二七七)六月に光基宛に出した日永書状(日蓮聖人遺文)は日蓮が代筆したといわれ、下山御消息の名で知られるなど、波木井氏(南部氏)と並んで初期の日蓮宗を支えた有力な檀那であった。康暦二年(一三八〇)から至徳二年(一三八五)にかけて書写された南松なんしよう院蔵大般若経の奥書に「下山北方与五沢村」とみえるのは、現中富なかとみ夜子沢よごさわ付近に比定され、前掲日静書状の例と併せ当郷が他村の位置を示す基準となるほど有力な集落だったことを示すのであろう。その後の下山氏は「太平記」巻三一(笛吹峠軍事)に甲斐源氏の下山十郎左衛門が足利尊氏方として登場する程度で、その動向は不明だが、南北朝の動乱のなかで没落していったものと思われる。

下山郷
しもやまごう

幡多郡の西北部、四万十しまんと川中流に位置し、大部分は現西土佐村に、一部は現宿毛すくも市に含まれる。四万十川はこの辺りでその流れを変え、目黒めぐろ川・黒尊くろそん川などの支流を合せて南流する。集落は四万十川と吉野川の合流点をはじめ、本支流の河成段丘上に点在する。「土佐州郡志」は「去高知三十余里、予州之界、村中多小川合大川南流、以下二十一村惣曰下山」と記す。当郷も上山かみやま郷同様、長宗我部氏時代に在地支配単位として機能しており、山内氏入国後も引継がれるが、江戸時代には上下に分れて、下山郷上分かみぶん・下分、下山上(分)村・下山下(分)村などともいわれた。地名は「大乗院寺社雑事記」文明元年(一四六九)八月一一日条にみえるのが早い例である(→黒尊

天正一七年(一五八九)の下山郷地検帳によると、郷内は一部の地域を除いては中世以来の「名」の形態をとどめており、口屋内くちやない名・中半なかば名・茅生かよう名・奥屋内おくやない名・楠山くすやま名・大宮おおみや名・須崎すさき名・下家地しもいえじ名・中家地なかいえじ名・河崎かわさき(川崎)名・西之方にしのほう名・たちばな名・宮地みやじ名・半家はげ名・江川えかわ名・用井もちい(用居)名・権谷ごんのたに(権之谷)名・江川庭田えかわにわだ名・永生ながおい名・津野川つのかわ(津野河)名・藤川ふじのかわ(藤之河・藤ノ川)名などがあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の下山郷の言及

【西土佐[村]】より

…北西部は愛媛県に接する。ほとんどが山林で,古くは下山郷といわれ,良材を産し,〈下山材木〉の名は中世の記録(《大乗院寺社雑事記》)にもみえる。とくに黒尊川最上流,黒尊一帯の美林では江戸初期,隣接する伊予宇和島藩による盗伐事件もあった。…

※「下山郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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