日本歴史地名大系 「下永井村」の解説 下永井村しもながいむら 福島県:いわき市旧三和村地区下永井村[現在地名]いわき市三和町下永井(みわまちしもながい)小玉(こだま)川上流の阿武隈高地中にあり、北西は上永井村、南は一山越して合戸(ごうど)村、集落を結ぶ道は幾曲りもして険阻である。もと長井村・永井村のうちで、宝徳三年(一四五一)三月二三日の岩城清隆書状(有造館本結城古文書写)に「長井さいしよの事」とみえ、代官を派遣して長井村・指塩(さいそ)村などを視察するよう白川氏に要請している。同年六月一日の好島隆衡去状(遠藤白川文書)に「奥州岩城之郡之内長井之村并、赤井之郷」とみえ、白川直朝に渡されている。元亀二年(一五七一)六月晦日の佐竹義重書状(上遠野文書)に「今度舟尾窪田、自訴之儀申理候長井村之事、被相返候」とみえ、岩城家中の舟尾氏と窪田氏が長井村の領有をめぐり争い、義重の仲裁により以前のごとく長井村は舟尾氏に、山方は窪田氏に返された。 下永井村しもながいむら 千葉県:海上郡飯岡町下永井村[現在地名]飯岡町下永井飯岡村の南東にあり、南は海に面する。元禄・天保両郷帳などでは下長井と記す。寛政六年(一七九四)の村絵図(飯岡町歴史民俗資料館蔵)によれば、集落は海食の激しい地にあり、海辺は小規模ながら塩場で、また地引網・建網・鮫網など小漁船の引上げ場、および干鰯場や網干場となっていた。天正四年(一五七六)八月二〇日の常燈(じようとう)寺蔵大般若経巻二〇三奥書にみえる下長谷村を当地に比定する説があるが未詳。同村の長識房がこれを書写しているが、同三九巻・二〇八巻の書写も行っている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by