下津村(読み)しもつむら

日本歴史地名大系 「下津村」の解説

下津村
しもつむら

[現在地名]久井町下津

江木えぎ村の南に位置し、村のほぼ中央を南東流する芦田あしだ川の支流御調川(久井川)流域低地が広がり、周辺の低丘陵部に時宗ときむね谷・国広くにひろ谷・貞森さだもり谷・末正すえまさ谷・大迫おおさこ谷・鬼岩おにいわ谷・てら谷・松迫まつざこ谷・シカタ谷・ほん谷・おく谷・西坊にしのぼう谷・箱石はこいし谷・大塚おおつか谷などが発達する。西部丘陵に舟石ふないし古墳・竜王りゆうおう古墳・柏木かしわぎ古墳、東南部丘陵に大国山おおくにやま古墳・明神山みようじんやま古墳・大塚古墳、東部丘陵に荒神谷こうじんだに古墳、北部丘陵に亀尾山かめおやま古墳などがある。なかでも大塚古墳は玄室奥行約四メートル、横約三メートル、高さ約二メートル、羨道約二メートルの横穴式石室をもつ円墳である。

当地は古代から中世にはくい庄に属し、江木稲生いなり神社は当初当村はら谷の杭田くいだに勧請されたもので、のち江木に移したと伝え、村内に同社の供僧寺の所伝をもつ寺院や寺跡が多くみられる。また、慶長三年(一五九八)八月一五日付の備後国御調郡杭稲荷社御祭御頭注文(山科文書)の了家(領家)分の名のうちに当村内の地名がみられる。

下津村
おりづむら

[現在地名]稲沢市下津町・下津〈牛洗うしあらい町・かた町・鞍掛くらかけ町・小井戸こいど町・光明寺こうみようじ町・蛇池じやいけ町・住吉すみよし町・高戸たかど町・長田ながた町・ふじつか町・細廻ほそまわり町・穂所ほどころ町〉

東の村境を青木あおき川・五条ごじよう川が流れる。天保村絵図によると、村の中央を岐阜街道が南北に縦断して、その両側に人家が建並び、定福寺じようふくじ町・小町屋こまちや町・しん町・片町と四区に分れ、ほかに光明寺こうめいじ広幢寺こうしようじ四軒家しけんやの三支郷がある。

中世は伊勢神領(神鳳鈔)で、鎌倉街道の下津宿や下津の渡・馬市もあった(沙石集、十六夜日記)。足利尊氏・北畠顕家らが通行した(足利尊氏関東下向宿次)

下津村
しもづむら

[現在地名]月夜野町下津

上津村の東から南にかけてを村域とし、西部を三国街道が通る。江戸初期には上津村とともに名胡桃なぐるみ村といい、古代の呉桃なくるみ(和名抄)の遺称地とみられる。室町後期から戦国期には沼田氏の一族名胡桃氏の居城名胡桃城があった。下津村となってからも村は中村なかむら竹改戸たけかいと小川島おがわじまの三組に分れ、上津村の上・下二組と合せて名胡桃五ヵ村と称した(桃野村誌)。貞享二年(一六八五)の旧真田領村高書上控に下津村がみえ、高八四二石余。宝永元年(一七〇四)の沼田領村々石高書上では高八四一石余、反別は田三九町九反余・畑一〇三町九反余。上津・下津地域は水の便が悪く溜池と灌漑用水とが併用されていたが、農業用水の確保は困難であったため、周辺の村との相論があった(弘化三年「用水出入済口証文」中村組有文書)

下津村
おりつむら

[現在地名]鹿島町下津

鹿島灘の沿岸にあり、北は小宮作こみやざく村。鹿島台地からの湧水が末無川となって東進し扇状地を形成する。天正一九年(一五九一)東義久知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「おり戸」とある。寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、寛永期頃は神向寺じんこうじ・小宮作・明石あかし各村とともに清水しみず村の内に含まれ、旗本領であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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