日本歴史地名大系 「八幡城跡」の解説 八幡城跡はちまんじようあと 岐阜県:郡上郡八幡町八幡町八幡城跡[現在地名]八幡町柳町南に吉田(よしだ)川、西に小駄良(こだら)川・長良川が流れ、背後の尾根は飛騨境まで延びる。現在の積翠(せきすい)山、郡上郡四筋、上之保(かみのほ)・明方(みようがた)・和良(わら)・下川(しもかわ)の主要道の合流地を眼下に見下ろす軍事・交通上要衝の地にあり、南および西麓に城下町の発達をみた。県の史跡に指定され、八幡城のほかに郡上城(美濃明細記・美濃雑事紀)、積翠城・虞(ぐ)城(濃北風雅)の異名をもつ。ただし、郡上城が篠脇(しのわき)城・阿千葉(あちば)城・木越(きごし)城(現大和町)などと、八幡城が赤谷山(あかだにやま)城と混同されている文献もあり、後述する遠藤盛数以前については不明な点が多い。八幡城の名の起りは、城山山頂に八幡宮が鎮座し、八幡山とよばれていたことに由来する。「美濃明細記」には文明年中(一四六九―八七)東常縁の築城とあり、「美濃国古蹟考」「新撰美濃志」も同一説をとるが、「秘聞郡上古日記」(県立図書館蔵)では常縁の築いたのは赤谷山城となっている。永禄二年(一五五九)東殿山(とうどやま)城の東常慶・常尭父子との合戦に際し、遠藤盛数は対岸の八幡山に布陣し、戦後八幡宮を南麓に遷座し、山腹に城を築いたという。盛数は東氏の支流で、宗祇への古今伝授で知られる歌人の東常縁の曾孫にあたる。盛数没後の天正一六年(一五八八)、遠藤氏は豊臣秀吉により二万石の地を追われ、加茂郡小原(おばら)(現白川町)に移された。 八幡城跡はちまんじようあと 滋賀県:近江八幡市八幡町八幡城跡[現在地名]近江八幡市宮内町標高二八五・七メートルの鶴翼(かくよく)山(八幡山)山頂および南麓に位置した山城。八幡山城ともいう。天正一三年(一五八五)閏八月、八幡山に封ぜられた羽柴秀次による築城とされ(「古蹟文徴」など)、留守居役として田中吉政が置かれた。しかし、「長興宿禰記」長享元年(一四八七)九月二四日条に「佐々木六角被官伊庭以下館金剛寺、八幡山」とみえ、第一次六角征伐の際に幕府方の攻撃によって、両館が陥落しており、秀次の築城以前に六角氏の重臣伊庭氏の居館(砦か)があったと考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by