江戸時代、上州と越後を結んだ主要道で、三国通・三国道、また佐渡へ通ずるので佐渡道などとも称した。上州と越後の境三国峠を越えるためこの称がある(利根郡新治村の→三国峠)。道中奉行の作成した「道中方覚書」は「江戸より佐州江中山道并三国通り」とし固定した段階の道筋を次のように記す。中山道高崎宿―(一二里半)
この街道が整備されたのは近世に入ってからだが、三国峠の利用は古く、群馬県と新潟県
三国通ともよばれ、三国峠(現南魚沼郡湯沢町)を越えて関東へ直通する。近世の脇往還、佐州三路の一つ。越後国内諸藩の参勤交代路であり、佐渡産出の金の輸送路とも決められていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
上州(群馬県)高崎で中山道(なかせんどう)から分かれ、三国峠を越えて越後(えちご)(新潟県)に入り、佐渡(さど)への港である出雲崎(いずもざき)に至る街道。この間、上州に11、越後に14の宿(しゅく)駅があった。越後の諸侯の参勤交代や佐渡奉行(ぶぎょう)の往来があり、佐渡金山に送られる無宿人足、越後から関東への行商人、上州草津への入湯者なども通った。越後の米もこの街道で上州に運ばれ、永井宿には米市が立った。豪雪地帯なので冬季の通行の苦難は格別であった。三国峠付近では冬季は馬を使えず人足に頼り、夏季の5、6倍の人数を必要とした。南牧と猿ヶ京(さるがきょう)には関所が置かれた。三国峠には三国権現(ごんげん)があって越後、信濃(しなの)、上野(こうずけ)三国の一宮(いちのみや)を祀(まつ)る。いわゆる「境の明神」である。なお、三国街道はほぼ国道17号に相当する。
[中島義一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…その産出量はとくに江戸初期に多く,幕府の重要な財源であったので,大量の金銀輸送,幕府役人等の通行のため重視される街道となった。佐渡路には中山道追分宿から分かれて出雲崎(いずもざき)に出る北国街道,中山道高崎宿から分かれて寺泊(てらどまり)に出る三国街道,奥州道中白河宿で分かれて新潟に出る会津街道の3道があって,出雲崎,寺泊,新潟が渡海場に当てられていた。佐渡御金荷は小木港から出雲崎に海上輸送されたあと北国街道を陸送されたので,北国街道は江戸初期に合宿継や寄馬制など特別な継立体制が確立した。…
…伊勢路は東海道の四日市から分かれ,神戸より山田までの7宿を経て伊勢神宮に達する街道,伊賀越道中は東海道の関から奈良にいたる街道である。佐渡路は江戸より佐渡にいたる街道で,これには奥州道中の白河から越後の寺泊に出る会津通,中山道の高崎から分かれて三国峠を越えて越後の出雲崎に出る三国街道,中山道追分宿で分かれて出雲崎までいく北国街道,の3道がある。北国路は,中山道の関ヶ原から加賀の立花(またはさらに延長して新潟経由,陸奥の三厩(みんまや)に達する)街道であるが,仙台・松前道は奥州道中の白川より延長して郡山,仙台,盛岡を経て箱館にいたる街道であり,羽州街道は仙台道の桑折(こおり)から山形,新庄,湯沢などを経由して青森湊に達する街道で,秋田道ともいった。…
※「三国街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新