下鳥羽村
しもとばむら
[現在地名]伏見区下鳥羽〈
円面田町・
長田町・
上向島町・
北ノ
口町・
小柳町・
三町・
下向島町・
松若町・
浄春ヶ
前町・
城ノ
越町・
須釜町・
但馬町・
中向島町・
平塚町・
広長町・
前田町・
南町前町・
柳長町・
葭田町・
澱女町・
六反長町・
渡瀬町〉
北は中島村・竹田村・芹川村、東は毛利治部村・伏見町、南は下三栖村・横大路村、西は桂川を介して久我村・鴨川村と接す。西方を鴨川が流れ、村の南西端で桂川に合している。また、村のほぼ中央を南北に鳥羽街道が走る。
古代の鳥羽郷(和名抄)の地にあたる。古来水陸交通の結節点として京郊の要衝であった。一一世紀末には中島村の地を中心として白河天皇の鳥羽殿(鳥羽離宮)が造営されたが、「後二条師通記」永長元年(一〇九六)正月六日条(裏書)に「江中納言為院御使申云、東伏見可為御領、於西伏見者、所領田畠等不可知食由所被見也」とあり、また「中右記」同年六月三日条に「有政、上卿江中納言、左大弁参入、中弁以下不参、仍不被渡南御所、引被参内、是鳥羽殿以南臥見以北為院御領官符請印也」とみえるので、当地はその後、院領として推移したものと思われる。中世には西園寺家領鳥羽庄域に含まれていたと考えられるが、実態は明らかでない。
京南郊の鳥羽の地は、洛中への出入口として戦乱の際に拠点となることが多かった。
下鳥羽村
しもとばむら
[現在地名]豊科町大字豊科 下鳥羽
旧梓川の河床を流れる中曾根川左岸の自然堤防上に立地。このため巾下には流れ畑・水出・清水田などの地字がみられる。寛文六年(一六六六)の検地の際上・下両鳥羽村に分村。
同年の田畑入下げ検地で、七四石の斗代下げがあった。下鳥羽村は水量が少なく、しかも鳥羽堰の流末であるので水不足に悩まされており、田を畑にしたものと思われる。享保年代(一七一六―三六)成相組鑑(鳥羽官一氏蔵)によれば、日損の所が四一七石あるとされている。享保一九年に村中にあった神社を村境に移転している。
<資料は省略されています>
隣村の吉野村でも同年に神社の移転を行っており、耕地の拡張、越境開墾などが行われ、原境論が盛んになってくる頃である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報