日本大百科全書(ニッポニカ) 「中ソ国境紛争」の意味・わかりやすい解説
中ソ国境紛争
ちゅうそこっきょうふんそう
1969年に極東地域の中国・ソ連間の国境および中央アジアの中ソ国境で大規模な武力紛争がおこった。当時、中ソが直接に接する国境線は7000キロメートルに及んでいたが、中ソ間には国境協定は締結されず、国境線の未確定地域が多く存在した。中華人民共和国の成立以後、冷戦時代の1950年代には、中ソ両国は友好関係にあったが、50年代末に両国関係に社会主義路線のうえで対立が発生すると、60年から国境紛争が発生するようになった。
1962年4月にはソ連との国境沿いの新疆(しんきょう)ウイグル自治区塔城(とうじょう)、裕民(ゆうみん)、霍城(かくじょう)3県の少数民族6万人がソ連領に逃げ、5月にはイリ暴動事件が発生した。中国側はこれら事件をソ連の策謀によるものであると非難した。66年から始まった文化大革命は中ソの対立を決定的にしたが、69年3月2日、中国東北地方の中ソの国境をなしているウスリー川の小さな中州の珍宝島(ダマンスキー島)で、両国国境守備隊の大規模な武力衝突事件が起こり、ソ連側は将校以下31名が戦死し、14名が重軽傷を負ったといわれる(中国側は不明)。さらに、3月15日、同島で二度目の、より大規模な武力衝突が起こった。5月以降、衝突は黒竜江と中央アジア・新疆ウイグル自治区の中ソ国境に拡大し、8月に裕民県でソ連がヘリコプター、戦車、装甲車を投入する、より大規模な衝突に発展した。しかし、9月には両国首相の会談が行われ、まず国境の現状維持、武力衝突の防止、双方の武装力を国境の紛争地域から引き離す臨時措置の協議を行って、国境問題を解決することなどが同意され、10月から国境会談が開始された。
国境交渉はすでに1964年に開始されていたが、国境線に対して両国の認識が大きく食い違っていた。中国側は、国境線についてのアイグン、北京(ペキン)、イリの諸条約は当時締結された他の条約と同じようにいずれも「不平等条約」であり、時が熟したとき、平和的に話し合いによって処理すべきであって、それまで現状を維持する用意があると述べて、国境線のすべてについて話し合うことを明らかにした。ソ連側は、諸条約が「不平等条約」であることを否定し、国境線全部について話し合うことを拒否し、ただ、双方の合意に達していない部分についてのみ話し合うと表明した。69年10月の中ソ国境会談の開始後、大規模な武力衝突はなくなったが、70年代から80年代前半にかけて、中ソ双方の敵対関係は続き、双方は国境地帯に100万の軍隊を配備して対立した。しかし、89年5月に、ソ連のゴルバチョフ書記長が北京を訪問(その10日後に、最高会議議長に選ばれる)、中ソ国家関係、党関係ともに正常化し、国境問題についての協議も進展し、90年4月には、李鵬(りほう)首相の訪ソによって、国境地区の兵力削減と信頼醸成措置の原則についての協定が締結され、さらに、91年5月には、江沢民(こうたくみん)総書記の訪ソにより、国境河川の一部を除いて、東部国境地区の国境についての協定が調印された(92年2月に批准)。ソ連崩壊後、92年12月、ロシアのエリツィン大統領が訪中、まだ一致をみていない国境問題については、話し合いで解決することと、国境地区での兵力削減を確認した。96年4月のエリツィン訪中でも、未解決の国境画定交渉の続行、国境地域の軍事力削減協定の締結へ向けての努力を確認、さらに、4月26日、上海(シャンハイ)でエリツィン・江沢民両首脳は、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの各首脳とともに、国境地帯での武力不行使などを定めた軍事分野の信頼強化協定に調印した。97年11月、北京における中ロ首脳会談で、東部国境(約4300キロメートル)の画定作業の終了を確認する「中ロ共同宣言」が調印された。ただし、91年5月の「中ソ国境協定」調印の際に、両国が領有権を主張して譲らず同協定から除外された、アムール川とウスリー川の合流点にある大ウスリー島、タラバロフ島(中国はこの2島を一括して黒瞎子島と称する)と、アルグン川にあるボリショイ島の3島については帰属は未画定のままで残った。98年11月、モスクワで開かれたエリツィン大統領と江沢民主席による首脳会談で西部国境(ロシアのアルタイ共和国と中国の新疆ウイグル自治区が接する国境線約55キロメートル)の画定作業終了が宣言され、未画定の3島を除いて、中国とロシアの国境問題は決着した。その後、2004年、プーチン大統領と胡錦濤(こきんとう)主席による北京での首脳会談時に、未確定であった3島についての国境協定(東部国境補足協定)の締結が発表され、2005年に批准された。
[安藤正士]