基本情報
正式名称=タジキスタン共和国Jumhurii Tojikistan/Republic of Tajikistan
面積=14万3100km2
人口(2011)=700万人
首都=ドゥシャンベDushanbe(日本との時差=-4時間)
主要言語=タジク語(公用語),ウズベク語,ロシア語
通貨=ソモニSomoni
中央アジア南東部の共和国で,独立国家共同体(CIS)構成国の一つ。旧ソ連邦の構成国であったタジク・ソビエト社会主義共和国が1991年独立し,改称したもの。領内の南東部にゴルノ・バダフシャン自治州(人口約17万,1991)を含む。公用語のタジク語はペルシア語と近縁の言語。
自然,住民
国土の約9割を,世界の屋根といわれるパミール高原が占め,南でアフガニスタン,東で中国と国境を接する。北部にはキルギスタン,ウズベキスタン両共和国にまたがるフェルガナ盆地が広がり,北西部と中部にはトルキスタン,ゼラフシャン,ギサール,アライの諸山脈があって,南部パミール高原にはソ連の最高峰コムニズム峰(7495m),第3位のレーニン峰(7134m)がそびえる。南西部にはバフシ,ギサールの諸盆地がある。気候は大陸性で乾燥しており,砂漠,ステップ,山岳ステップが多い。
人口は1913年103万,40年152万5000であったが,第2次大戦後急増しており,91年の自然増加率は1000人当り32.8人で,CIS諸国平均の5.4人よりずっと大きく,ロシアの0.7人,ウクライナの-0.8人とけた違いである。人口構成はタジク人62.3%,ウズベク人23.5%,ロシア人7.6%,タタール人1.4%などとなっており,ウズベク人が多いことが特徴である(1989)。ロシア人は,ドゥシャンベなど都市を中心に89年38万7000人であった。内戦のなかで国外への移住が進み,現在は7万~12万人程度に減っているものと思われる。タジク人には,ムスリム(イスラム教徒)が多い。
歴史
タジキスタンは1929年までウズベク(現,ウズベキスタン)共和国の一部であったので,概説的な叙述の重複を避けるため,ここでは共和国の領域の大部分を占めていたブハラ・ハーン国を中心として述べることとし,それ以前については〈タジク族〉,革命前後については〈ウズベキスタン〉の項目を参照されたい。
1865年,南下してきたロシア軍は,中央アジアの中心都市タシケントを占領,66年タジキスタン北部のホジェント(のちレニナバード,現フジャンド)とウラ・チュベをおとした。ブハラ・ハーン国は68年,サマルカンドを占領されたのち,ロシアの保護国となる。73年,ロシアはヒバ・ハーン国を保護国とし,74-76年のコーカンド(ホーカンド)暴動鎮圧のあとホーカンド・ハーン国を廃し,その領域をフェルガナ州とした。その後80年代にはトルクメン地方を,95年にはパミールを占領し,中央アジア征服を完成した。征服されたのち,この地域では綿花栽培が急速に発展,ロシア綿工業のための集中的な原綿生産地となった。第1次世界大戦中は外国綿の輸入が止まったため,綿花栽培面積は拡大されたが,ロシアからの穀物供給は減少し,ムスリムの生活は困窮,不満は1916年後半の中央アジア全域に広がる中央アジア大反乱となって爆発した。これは,ムスリムの戦時後方労働への徴集を指示した勅令をきっかけとするものであるが,口火を切ったのはホジェント住民の蜂起である。
17年タシケントでのソビエト政府の成立は,タジキスタン北部でのソビエト政権樹立に大きい意義をもったが,ブハラ・ハーン国では青年ブハラ党の要請にもとづいて進攻した赤軍がアミールの軍隊にブハラ入城をはばまれた。アミールはコルチャークやドゥートフなどの白衛軍やバスマチ運動と結び,反動的な内外政策をとりつづけたが,20年8月のチャルジュイ(チャルジョウ,現トルクメナバート)での武装蜂起を機にM.V.フルンゼの率いる赤軍が入城,アミールは逃亡し,10月にブハラ人民ソビエト共和国が成立した。この革命は,身分制や専制,大地主的所有や農奴制の廃絶をめざす反封建的性格のものであるが,十月革命の影響のもとに共産党と赤軍が大きな役割を果たし,外国の干渉を排し,反革命の基地となることを防いだという点でロシア革命の一環であり,モンゴル人民革命と共通の性格をもつものであった。21年10月にはエンウェル・パシャがブハラに現れパン・トルコ主義をあおり,バスマチ運動が盛り上がったが,これとの戦いのなかでロシアとの関係は緊密となり,共産党の強化,〈コシチ〉同盟(ムスリム農民同盟)の組織化が行われた。革命はいっそう徹底して推し進められ,24年9月ブハラ・ソビエト社会主義共和国への改組とソビエト連邦への参加が決定され,翌月,中央アジアの民族的境界画定によりウズベク共和国の中にタジク自治ソビエト社会主義共和国が誕生,ブハラ共和国の領域の一部はその中に含まれることになった。そして29年10月,自治共和国はタジク・ソビエト社会主義共和国に昇格した。
経済,社会,文化
29年より工業化と農業の集団化,文化革命が行われた。工業化の特徴は,主として農業原料を加工する軽工業であること,手工業の段階を経ないで大工業企業が建設されたことで,レニナバード絹コンビナート,オルジョニキーゼ機械工場,多くの綿花精製工場,建設材料や食品工場が建てられた。灌漑と発電のため豊富な水力資源の開発も進められ,ダムが築かれ,水力発電が発展した。ワフシ灌漑システム,大フェルガナ運河,大ギサール運河は有名である。これによって綿花生産は増大し,とくに細繊維綿の生産を伸ばした。
第2次大戦後,工業化は一段と進んだ。エネルギー源はバルソフ,カイラクムなどの水力発電所で,電力生産は90年181億kW/hと,1940年6000万kW/hの実に302倍である。紡績・綿織物・絹織物工場,ブドウ酒醸造・缶詰・バター製造などの食品工場などの軽工業のほかに,化学工業,農業機械工業などの重工業部門も発展している。石油,天然ガス,石炭,非鉄金属(鉛,亜鉛,タングステン)の採掘も盛んになった。農業生産は,同じ中央アジアのウズベキスタン,トルクメニスタンの両共和国に次いでCIS第3位を占める84万2000t(1990)の綿花のほか,ジャガイモ,野菜,ブドウが中心である。畜産では羊,ヤギ,ヤクが飼育される。運輸は自動車が大きな役割を果たしており,道路建設に力がそそがれた。
革命前のタジキスタンでは200人に1人しか読み書きができず,高等教育施設はまったくなかった。またトラコーマ,チフス,皮膚病などがまんえんし,病院もなかった。現在,文盲は一掃され,高等教育施設は首都のタジク国立大学をはじめ13,学生数は6万9300(1991),医師の数は住民1万人当り25.5人,ベッド数107床(1991)となっている。また,国内には文化的遺跡が多く,5~8世紀のソグド人の都城址ペンジケントはその代表例である。芸術活動も盛んで,タジク近代文学の祖といわれるS.アイニーの名は国外にも広く知られている。
今日,イスラム教がどの程度信仰されているかはっきりしないが,その影響力を過大にみることはできないであろう。1920年代の土地・水利改革を画期として,宗教は経済と切り離されたからである。隣接するアフガニスタンの社会主義化との関連では,国境を接するこの地もムスリムの多く住む地域であり,とくにタジク人はアフガニスタン北部にも住んでいることから,その動向が注目される。
独立後の動き
1991年9月9日に独立を宣言し,11月24日の大統領選挙で元共産党の第一書記R.ナビエフが当選した。92年には,民主党とイスラム再生党が組んでナビエフに連立を呑ませ,9月に辞任に追い込んだが,その後,南部のクリャブ州(現,ハトロフ州)で結成された共産党系の人民戦線部隊が首都ドゥシャンベを占領し,12月にソホーズ議長の経歴をもつI.ラフモノフの政府を樹立した。アフガニスタン・ゲリラの支援を得た反政府勢力との間で内戦(タジキスタン内戦)が始まった。
94年11月6日の大統領選挙では,ラフモノフは企業家の支持を得たアブドジャノフを破って当選し,同時に行われた国民投票で新憲法が採択された。ロシア,アルメニア,ウズベキスタン,カザフスタン,キルギスタンは,1992年5月15日にタジキスタンと集団安全保障条約に調印し,8月7日には中央アジア4ヵ国とロシアの首脳会議でタジキスタンの国境をCIS共通の国境とみなし共同防衛することを声明した。97年6月,政府と反政府勢力との間で国民和解に関する協定が成立し,アフガニスタンに避難した難民の帰還も始まっているが,戦争のために生産は激減しており,国民所得はCIS諸国のなかで最低となっている。独自通貨として1995年5月15日にタジク・ルーブルを導入した。
執筆者:木村 英亮