タジキスタン(読み)たじきすたん(その他表記)Republic of Tajikistan 英語

共同通信ニュース用語解説 「タジキスタン」の解説

タジキスタン

国土の9割がパミール高原。人口は約1015万人で、ペルシャ系のタジク人が約84%、ウズベク系が約14%。公用語はタジク語だが、ロシア語も広く使われている。イスラム教スンニ派が優勢。主産業は農林業だが、山岳地帯のため耕作地は限られ、旧ソ連諸国の最貧国。1991年の独立後、92~97年は内戦状態。中国やアフガニスタンウズベキスタンなどと国境を接し、ロシア軍約3千人が駐留する。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「タジキスタン」の意味・読み・例文・類語

タジキスタン

  1. ( Tadzhikistan ) 中央アジアにある共和国。旧称タジク共和国。大部分はパミール高原とフェルガナ盆地に含まれ、南はアフガニスタン、東は中国に接する。住民は主にタジク人、ウズベク人、ロシア人など。トルコ、アラブ、モンゴルなどの支配ののち、一九世紀後半ロシア領となり、一九二四年に自治共和国、二九年にソビエト連邦を構成する共和国の一つとなったが、九一年に独立改称。首都ドゥシャンベ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「タジキスタン」の意味・わかりやすい解説

タジキスタン
たじきすたん
Republic of Tajikistan 英語
Jumhrii Tojikiston タジク語
Республика Таджикистан/Respublika Tadzhikistan ロシア語

中央アジアに位置する共和国。かつてはソビエト連邦を構成する15共和国の一つ、タジク・ソビエト社会主義共和国Таджикская ССР/Tadzhikskaya SSRであったが、ソ連崩壊(1991年12月)直前の1991年9月9日独立を宣言し、従来の地域名を採用してタジキスタン共和国と改称した。南はアフガニスタン、東は中国、西と北はウズベキスタン、キルギスに接する。面積14万3100平方キロメートル、人口699万2000(2006推計)。首都はドゥシャンベで、人口55万3000(2007)。

[山下脩二・木村英亮]

自然

タジキスタンの東半はパミール高原、北西はトルキスタン、ゼラフシャン、ギッサールなどの山脈、北はフェルガナ盆地の西端、南西はバフシュ川とギッサールの谷、南はアムダリヤ右岸地域である。以上のように国土の90%は山地で占められている。パミール高原は標高5000メートルを超える高山地域で、コムニズム峰(7495メートル)やレーニン山(7134メートル)があり、アルピニストにはよく知られた地である。主要河川は北にシルダリヤ、ゼラフシャン、南にアムダリヤとその支流のバフシュ、カフィルニガンがある。気候は極端に大陸的で、平均気温は1月零下2℃前後、7月は27℃~30℃、年降水量は平均して700ミリメートル、東部では100ミリメートルにも達しない。大部分の地域は砂漠ないしステップ(短草草原)である。

[山下脩二・木村英亮]

歴史・政治

タジキスタンを含む中央アジア最古の国家はバクトリアである。この地域は紀元前6~前4世紀にイラン人に占領され、さらにギリシア人、トルコ人によっても支配された。8世紀アラブに征服され、9世紀サーマーン朝が大国家を建設する。13世紀モンゴルが征服、16世紀ブハラ・ハン国がその大部分を併合する。ロシアは1868年、フェルガナ、サマルカンドなどを併合し、ブハラ・ハン国を保護国とした。1917年11月のタシケントにおけるソビエト政権の成立は、タジキスタン北部に大きな影響を及ぼした。ブハラ・エミール(汗)は、コルチャーク、ドゥートフなどの白軍やバスマチ運動とよばれるムスリム農民の反ソ暴動と結び、反動的な内外政策をとり続けたが、1920年8月、チャルジュイチャルジョウ、現トルクメナバード)での武装蜂起(ほうき)を機にフルンゼの率いる赤軍が入城し、10月ブハラ人民ソビエト共和国が成立した。これは1924年9月社会主義共和国となる。同年中央アジア民族的境界区分が行われてウズベク共和国の一部としてタジク自治共和国が誕生、ブハラ共和国の一部はそのなかに含まれることになった。タジク自治共和国は1929年に連邦構成共和国へ昇格、タジク・ソビエト社会主義共和国となった。

 1990年8月タジク最高会議は主権国家宣言を採択、タジキスタン共和国となり、1991年9月9日独立を宣言、12月独立国家共同体(CIS)に加盟した。

 タジキスタンでは共産党の勢力が強く、1991年のソ連における八月クーデター後も共産党勢力が攻勢をとり、11月24日の大統領選挙で共産党のナビエフRakhman Nabiev(1930―1993)を当選させた。1992年に急進改革派の民主党とイスラム再生党が結んで大統領に連立をのませ、9月にナビエフを辞任に追い込んだが、その後南部クリャブ州で結成された旧共産党系の人民戦線部隊が首都ドゥシャンベを取り戻し、12月にソフホーズ(国営農場)議長の経歴をもつ最高会議議長ラフモノフ(2007年4月ラフモンに改姓)の政府を樹立した。イスラム勢力はこれに対し、アフガニスタン・ゲリラの支援を得て攻撃したため内戦が続き、全人口の1割にも達する50万人以上の難民が発生、人民戦線議長サファロフも1993年3月末に殺害された。ラフモノフは1994年11月6日の大統領選挙で、私的所有を訴え企業家の支持を得たアブドラジャノフを破って当選し、同時に行われた国民投票で新憲法を採択した。政府軍のなかでも腐敗に抗議して反乱が起こり、1996年2月第一副首相などを解任した。ラフモノフは1999年11月の大統領選挙で再選、2006年11月には3選を果たした。

 内戦に対応するため、タジキスタンはロシア、アルメニア、ウズベキスタン、カザフスタンキルギスタン(現キルギス)と1992年5月15日に集団安全保障条約に調印したが、8月7日にはこの中央アジア4か国とロシアが首脳会議を開き、集団安全保障条約に基づいて、タジキスタンの国境をCIS共通の国境とみなし共同防衛することを声明した。ロシア軍は約2~3万人のCIS合同平和維持軍を国境に配置しているが、ロシア軍と反政府ゲリラの間で戦闘が行われていた。1994年以降、政府と反政府との間で停戦の話し合いが続けられ、1997年6月に最終的和平協定に調印した。その後、1999年9月の憲法改正国民投票、11月の大統領選挙を経て、2000年に議会選挙が行われ、和平プロセスが完了した。

 大統領の任期は7年。議会は二院制で、議員定数は上院(国民議会)33、下院(代表者会議)63、任期はともに5年である。

[山下脩二・木村英亮]

産業・経済

従来ヒツジ、ヤギ、ヤクの放牧を専業としてきた住民は、灌漑(かんがい)された農業用地(全土の30%を占める)で穀物、ビート(サトウダイコン)、ジャガイモの栽培や、スイカ、リンゴ、ナシの果樹栽培を行っている。山麓(さんろく)での細繊維種の綿花栽培も盛んである。フェルガナ盆地の絹、綿、アムダリヤ流域の綿はもっとも重要な作物となっている。食品工業はぶどう酒醸造と製油で、ぶどう酒は北部、製油は南部で盛んである。有色金属、希金属の宝庫でもあり、山麓地域の工業化が計画され、急流を利用していくつかの水力発電所も建設された。とりわけバフシュ川をせき止めてつくったヌレク発電所は出力270万キロワットで、工場や町村民に十分な照明、熱、動力を供給している。工業生産は少ないが、ソ連時代からアルミニウム生産が行われており、輸出産業の中心を占めてきた。対外貿易はアルミニウム、綿繊維などを輸出し、石油製品、電力、機械設備などを輸入している。1人当りの国民所得はCIS諸国のなかでも最低で、1995年には経済危機回避のため、ロシアとの間に援助協定が結ばれた。1993年4月には国際通貨基金(IMF)に加盟している。

 1995年5月15日独自の通貨タジキスタン・ルーブルを導入、それが2000年よりソモニに変更となった。

[山下脩二・木村英亮]

社会

タジク人は中央アジア諸国の国の名称を名のる民族のなかで唯一のイラン系民族である。1989年の人口調査では、総人口509万人のうちタジク人は62.3%、ウズベク人23.5%、ロシア人7.6%であった(2007年にはタジク人64.9%、ウズベク人25%、ロシア人3.5%などとなっている)。首都ドゥシャンベではロシア人が32.4%である。ロシア人は首都とその北の都市フジャント(ソ連時代の名称レニナバード)に住み、工業労働者の6割以上を占め、研究、教育、医療、管理部門など高い資格を求められる部門で活躍してきた。ロシア人で公用語であるタジク語を知っているものは3.5%にすぎない。ドイツ人は3万2671人、ユダヤ人は9701人であったが、ロシア人と同様、混乱のなかでドイツ、イスラエルなどに移住し、現在では激減しているものと思われる。

 タジク人は1989年の人口調査で317万人であるが、アフガニスタンにはもっと多い370万人がおり、この隣国の内戦にさまざまなかたちでかかわらざるをえない。タジク人の一つの特徴は、第二言語としてロシア語を修得している者が3割と低いことである。もう一つの際だった特徴は人口の増加率が高いことで、1000人当り32.6、ウクライナ人の1.7と比べればその高さがわかる。1940年の総人口が151万5000人であったから50年間で3.4倍になったのである。1家族平均人数は6.1人であった。しかし、ソ連の解体後、1992年以降の出生率の低下と死亡率の増大のため、1000人当り人口の増加率は19.9へと減少した。これはCIS諸国共通の現象であるが、ソ連解体と資本主義化の政策が人々の生活にいかに大きな打撃を与えているかがわかる。

 タジキスタンはほとんど全土が高山で、国内東側にゴルノ・バダフシャン自治州が設けられている。山岳地帯に住むタジク人にはイスラムの影響が強い。農耕はわずかな盆地で行われているが、おもな生産物である綿の栽培が盛んなフジャント州や南西部のクリヤブ州は共産党の基盤である。

 学校教育(初等・中等)は11年制で、義務教育は6歳から9年間。公用語のタジク語のほかにロシア語も広く使われている。宗教はイスラム教スンニー派が多数を占めているが、パミール地方では同シーア派も多い。

[山下脩二・木村英亮]

『橋田担編『中央アジア諸国の開発戦略』(2000・勁草書房)』『小松久男・梅村担他編『中央ユーラシアを知る事典』(2005・平凡社)』『清水陽子著『シルクロードを行く――中央アジア五カ国探訪』(2008・東洋書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「タジキスタン」の意味・わかりやすい解説

タジキスタン
Tajikistan

基本情報
正式名称=タジキスタン共和国Jumhurii Tojikistan/Republic of Tajikistan 
面積=14万3100km2 
人口(2011)=700万人 
首都=ドゥシャンベDushanbe(日本との時差=-4時間) 
主要言語=タジク語(公用語),ウズベク語,ロシア語 
通貨=ソモニSomoni

中央アジア南東部の共和国で,独立国家共同体(CIS)構成国の一つ。旧ソ連邦の構成国であったタジク・ソビエト社会主義共和国が1991年独立し,改称したもの。領内の南東部にゴルノ・バダフシャン自治州(人口約17万,1991)を含む。公用語のタジク語ペルシア語と近縁の言語。

国土の約9割を,世界の屋根といわれるパミール高原が占め,南でアフガニスタン,東で中国と国境を接する。北部にはキルギスタン,ウズベキスタン両共和国にまたがるフェルガナ盆地が広がり,北西部と中部にはトルキスタン,ゼラフシャン,ギサール,アライの諸山脈があって,南部パミール高原にはソ連の最高峰コムニズム峰(7495m),第3位のレーニン峰(7134m)がそびえる。南西部にはバフシ,ギサールの諸盆地がある。気候は大陸性で乾燥しており,砂漠,ステップ,山岳ステップが多い。

 人口は1913年103万,40年152万5000であったが,第2次大戦後急増しており,91年の自然増加率は1000人当り32.8人で,CIS諸国平均の5.4人よりずっと大きく,ロシアの0.7人,ウクライナの-0.8人とけた違いである。人口構成はタジク人62.3%,ウズベク人23.5%,ロシア人7.6%,タタール人1.4%などとなっており,ウズベク人が多いことが特徴である(1989)。ロシア人は,ドゥシャンベなど都市を中心に89年38万7000人であった。内戦のなかで国外への移住が進み,現在は7万~12万人程度に減っているものと思われる。タジク人には,ムスリム(イスラム教徒)が多い。

タジキスタンは1929年までウズベク(現,ウズベキスタン)共和国の一部であったので,概説的な叙述の重複を避けるため,ここでは共和国の領域の大部分を占めていたブハラ・ハーン国を中心として述べることとし,それ以前については〈タジク族〉,革命前後については〈ウズベキスタン〉の項目を参照されたい。

 1865年,南下してきたロシア軍は,中央アジアの中心都市タシケントを占領,66年タジキスタン北部のホジェント(のちレニナバード,現フジャンド)とウラ・チュベをおとした。ブハラ・ハーン国は68年,サマルカンドを占領されたのち,ロシアの保護国となる。73年,ロシアはヒバ・ハーン国を保護国とし,74-76年のコーカンド(ホーカンド)暴動鎮圧のあとホーカンド・ハーン国を廃し,その領域をフェルガナ州とした。その後80年代にはトルクメン地方を,95年にはパミールを占領し,中央アジア征服を完成した。征服されたのち,この地域では綿花栽培が急速に発展,ロシア綿工業のための集中的な原綿生産地となった。第1次世界大戦中は外国綿の輸入が止まったため,綿花栽培面積は拡大されたが,ロシアからの穀物供給は減少し,ムスリムの生活は困窮,不満は1916年後半の中央アジア全域に広がる中央アジア大反乱となって爆発した。これは,ムスリムの戦時後方労働への徴集を指示した勅令をきっかけとするものであるが,口火を切ったのはホジェント住民の蜂起である。

 17年タシケントでのソビエト政府の成立は,タジキスタン北部でのソビエト政権樹立に大きい意義をもったが,ブハラ・ハーン国では青年ブハラ党の要請にもとづいて進攻した赤軍がアミールの軍隊にブハラ入城をはばまれた。アミールはコルチャークやドゥートフなどの白衛軍やバスマチ運動と結び,反動的な内外政策をとりつづけたが,20年8月のチャルジュイ(チャルジョウ,現トルクメナバート)での武装蜂起を機にM.V.フルンゼの率いる赤軍が入城,アミールは逃亡し,10月にブハラ人民ソビエト共和国が成立した。この革命は,身分制や専制,大地主的所有や農奴制の廃絶をめざす反封建的性格のものであるが,十月革命の影響のもとに共産党と赤軍が大きな役割を果たし,外国の干渉を排し,反革命の基地となることを防いだという点でロシア革命の一環であり,モンゴル人民革命と共通の性格をもつものであった。21年10月にはエンウェル・パシャがブハラに現れパン・トルコ主義をあおり,バスマチ運動が盛り上がったが,これとの戦いのなかでロシアとの関係は緊密となり,共産党の強化,〈コシチ〉同盟(ムスリム農民同盟)の組織化が行われた。革命はいっそう徹底して推し進められ,24年9月ブハラ・ソビエト社会主義共和国への改組とソビエト連邦への参加が決定され,翌月,中央アジアの民族的境界画定によりウズベク共和国の中にタジク自治ソビエト社会主義共和国が誕生,ブハラ共和国の領域の一部はその中に含まれることになった。そして29年10月,自治共和国はタジク・ソビエト社会主義共和国に昇格した。

29年より工業化と農業の集団化,文化革命が行われた。工業化の特徴は,主として農業原料を加工する軽工業であること,手工業の段階を経ないで大工業企業が建設されたことで,レニナバード絹コンビナート,オルジョニキーゼ機械工場,多くの綿花精製工場,建設材料や食品工場が建てられた。灌漑と発電のため豊富な水力資源の開発も進められ,ダムが築かれ,水力発電が発展した。ワフシ灌漑システム,大フェルガナ運河,大ギサール運河は有名である。これによって綿花生産は増大し,とくに細繊維綿の生産を伸ばした。

 第2次大戦後,工業化は一段と進んだ。エネルギー源はバルソフ,カイラクムなどの水力発電所で,電力生産は90年181億kW/hと,1940年6000万kW/hの実に302倍である。紡績・綿織物・絹織物工場,ブドウ酒醸造・缶詰・バター製造などの食品工場などの軽工業のほかに,化学工業,農業機械工業などの重工業部門も発展している。石油,天然ガス,石炭,非鉄金属(鉛,亜鉛,タングステン)の採掘も盛んになった。農業生産は,同じ中央アジアのウズベキスタン,トルクメニスタンの両共和国に次いでCIS第3位を占める84万2000t(1990)の綿花のほか,ジャガイモ,野菜,ブドウが中心である。畜産では羊,ヤギ,ヤクが飼育される。運輸は自動車が大きな役割を果たしており,道路建設に力がそそがれた。

 革命前のタジキスタンでは200人に1人しか読み書きができず,高等教育施設はまったくなかった。またトラコーマ,チフス,皮膚病などがまんえんし,病院もなかった。現在,文盲は一掃され,高等教育施設は首都のタジク国立大学をはじめ13,学生数は6万9300(1991),医師の数は住民1万人当り25.5人,ベッド数107床(1991)となっている。また,国内には文化的遺跡が多く,5~8世紀のソグド人の都城址ペンジケントはその代表例である。芸術活動も盛んで,タジク近代文学の祖といわれるS.アイニーの名は国外にも広く知られている。

 今日,イスラム教がどの程度信仰されているかはっきりしないが,その影響力を過大にみることはできないであろう。1920年代の土地・水利改革を画期として,宗教は経済と切り離されたからである。隣接するアフガニスタンの社会主義化との関連では,国境を接するこの地もムスリムの多く住む地域であり,とくにタジク人はアフガニスタン北部にも住んでいることから,その動向が注目される。

1991年9月9日に独立を宣言し,11月24日の大統領選挙で元共産党の第一書記R.ナビエフが当選した。92年には,民主党とイスラム再生党が組んでナビエフに連立を呑ませ,9月に辞任に追い込んだが,その後,南部のクリャブ州(現,ハトロフ州)で結成された共産党系の人民戦線部隊が首都ドゥシャンベを占領し,12月にソホーズ議長の経歴をもつI.ラフモノフの政府を樹立した。アフガニスタン・ゲリラの支援を得た反政府勢力との間で内戦(タジキスタン内戦)が始まった。

 94年11月6日の大統領選挙では,ラフモノフは企業家の支持を得たアブドジャノフを破って当選し,同時に行われた国民投票で新憲法が採択された。ロシア,アルメニア,ウズベキスタン,カザフスタン,キルギスタンは,1992年5月15日にタジキスタンと集団安全保障条約に調印し,8月7日には中央アジア4ヵ国とロシアの首脳会議でタジキスタンの国境をCIS共通の国境とみなし共同防衛することを声明した。97年6月,政府と反政府勢力との間で国民和解に関する協定が成立し,アフガニスタンに避難した難民の帰還も始まっているが,戦争のために生産は激減しており,国民所得はCIS諸国のなかで最低となっている。独自通貨として1995年5月15日にタジク・ルーブルを導入した。
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百科事典マイペディア 「タジキスタン」の意味・わかりやすい解説

タジキスタン

◎正式名称−タジキスタン共和国Jumhurii Tojikistan/Republic of Tajikistan。◎面積−14万3100km2。◎人口−756万人(2010)。◎首都−ドゥシャンベDushanbe(72万人,2010)。◎住民−タジク人64.9%,ウズベク人25.0%,ロシア人3.5%など。◎宗教−イスラム(おもにスンナ派),ロシア正教。◎言語−タジク語(公用語),ウズベク語,ロシア語。◎通貨−ソモニSomoni。◎元首−大統領,ラフモン Emamolii Rakhmon(1952年生れ,1994年11月就任,2013年11月4選,任期7年)。◎首相−ラスルゾダKohir Rasulzoda(2013年11月就任)。◎憲法−1994年11月国民投票で承認。2003年6月改正。◎国会−二院制。上院(定員33),下院(定員63),ともに任期5年(2010)。◎GDP−37億ドル(2007)。◎1人当りGDP−426.5ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−36%(1996)。◎平均寿命−男64.1歳,女70.8歳(2013)。◎乳児死亡率−52‰(2010)。◎識字率−99%以上(2008)。    *    *中央アジアにある共和国。略称タジク。アフガニスタンとの国境をアム・ダリヤが流れ,東部は中国と接する。南西部を除いてほとんどが山地で,東部にパミール高原が広がり,旧ソ連の最高峰ガルモ山(旧称コムニズム峰,7495m)がある。住民の60%余がイラン系のタジク人で,ほかにウズベク人(トルコ系)24%,ロシア人7%(1991)など。中央アジア5国の中で最も小さな国だが,近年の人口増加率3%は旧ソ連の中で最も高い。農業と牧畜(牛,羊)が主で,小麦・野菜・綿花・果樹栽培が行われる。工業は織物(綿・絹),ブドウ酒醸造,その他食品加工など。鉛,亜鉛,石炭,石油などの鉱産もある。 各地に旧石器時代の遺跡がある。タジク人はイラン系だが,7−8世紀にアラブに征服され,イスラム化した。16世紀に大部分がブハラ・ハーン国に併合され,1880年代にロシア領となった。1920年ブハラ人民ソビエト共和国が樹立され,1924年ウズベク共和国の中のタジク自治共和国としてソ連邦に加わった。1929年ウズベクから分離してタジク・ソビエト社会主義共和国となった。1990年主権宣言をし,1991年9月独立を宣言した。1990年には急進的なイスラム復興党が結成され,南部や東部を中心に勢力を伸ばしたが,1992年末以後は旧共産党派に抑圧された。1992年秋から,イスラム勢力を中心とする反政府派との争いが内戦に発展した。ゲリラの多くは隣国アフガニスタンに逃れ,アフガニスタン戦争の動向ともからんで政情不安の要因となっている。1997年6月和平協定が調印されたが,治安は悪く,1998年には内戦収拾のために国連機関で活動した秋野豊らが武装勢力により射殺される事件が起こった。2001年10月以降のアフガニスタン空爆では,ラフノモフ(現ラフモン)大統領は米国への協調を表明し,米軍に空軍基地などを提供した。アフガニスタンに隣接しいているため,アフガン情勢の影響を大きく受け,タリバーン政権崩壊後治安上の脅威は減少したが,テロ・麻薬・武器の流入は依然深刻な状況にある。2006年の大統領選ではラフモンの圧勝,2010年2月の下院議員選挙でもラフモンが党首の与党人民民主主義党が圧勝,さらに2013年11月に実施された大統領選挙でも,ラフモン大統領が80%超の得票率を得て圧勝し再選,政権は安定している。隣接しているウズベキスタンとは双方ともに自国内に相手国の民族が居住しており,ともに潜在的に反政府勢力となりうるため,複雑な関係にある。その他の外交的関係は,全方位を目指しているが,現実的にはロシアの影響が強い。近年は,中国の借款供与,インフラ整備の支援を受けており関係を深めている。
→関連項目ウズベキスタン中央アジアトルキスタン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「タジキスタン」の意味・わかりやすい解説

タジキスタン
Tajikistan

正式名称 タジキスタン共和国 Jumhurii Tojikistan。
面積 14万1400km2
人口 960万2000(2021推計)。
首都 ドゥシャンベ

中央アジア南東部の国。北はキルギス,東は中国,南はアフガニスタン,西はウズベキスタンと国境を接する。国土内にゴルノバダフシャン自治州を含む。ほぼ全域が山地からなり,東部にパミール高原があり,コムニズム峰 (7495m) をはじめ多くの高峰がそびえる。北西部にはトゥルケスタン,ゼラフシャン,ギッサールの各山脈が並行して東西方向に延びる。アフガニスタンとの国境にほぼ沿ってアムダリアの上流をなすピャンジ川が流れ,国土の大半は同川流域に属する。半砂漠,ステップ,山地草原が大部分を占める。顕著な大陸性気候で,標高による差も大きい。東部は乾燥し,年降水量 200mm以下であるが,西部は比較的降水量が多く,北西部の山地では 1500mm以上に上る。インド=ヨーロッパ語族のイラン語派に属する言語をもつタジク人の国で,住民の 65%がタジク人,次いでウズベク人約 25%,ロシア人 3.5%。スンニー派イスラム教徒が多い。人口は南西部のギッサール谷とバフシ川河谷,北部のフェルガナ盆地に集中。 19世紀半ばにロシア領となり,1924年ウズベク共和国に属するタジク自治共和国が成立。 1929年タジク=ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦構成共和国となった。 1991年タジキスタン共和国に改称して独立。独立国家共同体 CISに参加。 1992年国際連合加盟。公用語はタジク語とし,キリル文字の使用をやめてペルシア文字を採用している。住民の大部分が農村に居住し,灌漑地帯でワタ,イネ,トウモロコシ,野菜,ブドウその他の果樹を,非灌漑地帯でコムギ,オオムギなどを栽培している。またヤギ,ヒツジ,ウシの放牧も行なわれ,東パミールではヤクの飼育が行なわれる。工業部門は繊維 (繰綿,綿布,絹織物,絨毯) ,食品 (果実・野菜缶詰,油脂,製粉,ワイン) などの小規模な工業が中心で,機械,化学 (肥料) などの工業もある。また豊富な水力資源を利用して生産される電力をもとに,アルミニウム,電気化学などの工業も発展しつつある。国内の交通は自動車交通が中心で,航空交通も発達している。

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知恵蔵 「タジキスタン」の解説

タジキスタン

タジキスタンでは1992年以来、内戦と国境紛争が続いていた。92年春には、ソ連時代以来の共産党系政府とイスラム再生党などイスラム勢力との間で内戦となった。同年12月には共産党系のエモマリ・ラフモノフ(現ラフモン)大統領(当時は最高会議議長)の政権が成立。この政権に対してイスラム勢力は、アフガニスタン・ゲリラの支援を得て、国境紛争となった。97年2月には政府と反政府勢力は連立政府のための国民和解委員会をつくり、同年6月にロシアなどの仲介で和平協定に調印した。しかし、イスラム勢力は98年1月、政府が和平協定を履行していないとして、国民和解委員会への参加停止を発表。イスラム原理主義の拡大阻止と中央アジアでの影響力保持を狙うロシアは、タジキスタンに3万の兵力を投じてラフモン政権を援護している。2001年の米同時多発テロ後は、対アフガニスタン政策で米国とも協力している。05年3月のキルギスの政変(チューリップ革命)の後、野党への締め付けも強まった。外交、経済面では、最近中国との関係を強めている。

(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2008年)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「タジキスタン」の解説

タジキスタン
Tojikiston

中央アジアのパミール高原とその西麓の地域。南部のアジナテッパに仏教遺跡,西北部のペンジケントにソグド人の遺跡がある。北部のフジャンド周辺はアレクサンドロス大王の征服地の北東端にあたるが,その後はフェルガナ盆地の他の町と共通の歴史を歩み,コーカンド・ハン国の一部として1866年にロシアに征服された。南部は18~19世紀には半独立の小王国群に分かれていたが,1869~96年にブハラ・アミール国(当時ロシアの保護国)に併合された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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