日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国拳法」の意味・わかりやすい解説
中国拳法
ちゅうごくけんぽう
中国で行われてきた拳法のこと。中国の武術(ウーシュー)は「武器を持たず、素手にて行う」徒手武術と、「長短各種の武器を持って行う」器械武術に大別される。さらに徒手武術は、「突き、打ち、当て、蹴(け)り」を主体とする拳法、「投げ技」を主体とする摔角(しゅっかく)(ショワイチヤオ)、「関節や痛覚を攻める」擒拿(きんだ)(チンナー)に分類されるが、拳法の攻防技術には、摔角および擒拿の技術を多分に含んでいる。拳法は、中国では一般に「拳術」あるいは単に「拳」と称し、古くは手搏(しゅばく)、拳勇(けんゆう)、技撃(ぎげき)、白打(はくだ)などと称され、また地方によっては把式(はしき)、功夫(こうふ)、拳頭などとも称されている。
[松田隆智]
分類
拳法は、伝承されている地域や、あるいは攻防技術の特徴などによる、さまざまな分類法がある。地域による分類では、中国大陸のほぼ中央を横断して流れる長江(揚子江(ようすこう))を中心にして、その北側地方に伝承されるものを「北派(ほっぱ)拳術」と称し、また南側地方に伝承されるものを「南派(なんぱ)拳術」と分けるのが代表的な分類法であるが、この南北による分類は、ただ地域上の相違を示すのではなく、両派の拳術は技術上においても特徴を異にしている。拳法の攻防技術上の特徴による分類法には、長拳(遠攻長打)と短打(接近戦)、外家(がいか)拳(剛拳)と内家(ないか)拳(柔拳)、さらには象形(しょうけい)拳(動物などの動作を取り入れてある拳法)など、多くの分類法があるが、各派の拳法にはそれぞれ他派の特徴が混合している。
[松田隆智]
歴史
周代(前11世紀~前249)の『詩経(しきょう)』に、「文王の時、撃刺(げきし)の法あり」、「拳無きは勇無し」などの記載があり、『管子(かんし)』に「拳勇股肱(けんゆうここう)の力、衆に於(おい)て秀(すぐ)れ出たる者有れば、則(すなは)ち以(もっ)て告ぐるべし」との記載がある。この時代における貴族の子弟は、礼、射(弓術)とともに楽舞を学ぶことになっていたが、楽舞には文舞と武舞があり、武舞は戦争のための戦闘法を学ぶためのもので、今日の武術における練習や表演の原型といえる。
秦漢(しんかん)以後の各時代の人民の生活状況を伝える『史記』『漢書(かんじょ)』などの史書には、角抵(かくてい)、手搏、角觝(かくてい)などの名で徒手武術の記載があるが、古代における徒手武術には拳法と摔角の間に明確な区別がなく、徐々に武術としての拳法と、娯楽あるいは競技としての摔角は分離して発展するようになった。明(みん)代(1368~1644)に著された『武編(ぶへん)』(唐順之(とうじゅんし))、『紀效新書(きこうしんしょ)』(戚継光(せきけいこう))、『陣紀(じんき)』(何良臣(かりょうしん))などの武書に、「太祖(たいそ)長拳、八閃番(はっせんばん)、温家長打、劉短打(りゅうたんだ)、呂紅八下(ろこうはちげ)、綿張短打、巴子(はし)拳、李半天(りはんてん)の腿、鷹爪(ようそう)王の拿(だ)、張伯敬の打」などの門派(流派)の名が初めてみえる。清(しん)代(1616~1912)には、さらに各地に特徴を異にした門派が続出して確立し、それらの大部分は現在に継承されている。
[松田隆智]