中山田村(読み)なかやまだむら

日本歴史地名大系 「中山田村」の解説

中山田村
なかやまだむら

[現在地名]高山村中山田

東は平塩ひらしお山(西鳥屋にしとや)で奥山田おくやまだ、北は山稜で間山まやま(現中野市)、西は矢崎山やさきやま飯縄山いいづなやま駒場こまんば、南はまつ川でまき・高井野と境する。平塩山北背からの稲沢いなざわ川が中央を西流、南部の扇状地上には奥山田の鎌田堰上下二筋が通じている。坪井つぼい横道よこみち稲沢・平塩・中塩・原宮はらみや・中村・馬場ばんば矢崎やさきの集落がある。

中世東条ひがしじよう庄山田郷・栗原庄山田郷、また慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳の山田村に属し、翌八年松平忠輝領、元和元年(一六一五)頃は飯山城主堀直寄領(「堀直寄置目」島津文書)


中山田村
なかやまだむら

[現在地名]玖珠町山田やまだ

万年はね山の北斜面から玖珠川の左岸に至る間にあり、東は瀬戸口せとぐち村。村の南部の伐株きりかぶ(六八五・五メートル)は断株山とも書かれ(豊後国志)、「豊後国風土記」にみえる玖珠の郡名の由来となった樟がこの山にあり、その切株にちなむ山名であるという(「玖珠郡志」など)。古く山上には万年山興正こうしよう(洪樟寺・高勝寺とも)があったため興正寺山とも称し、山頂部には玖珠城ともいう高勝寺城が築かれていた。


中山田村
なかやまだむら

[現在地名]川辺町中山田

下山田村の南に位置し、村内を万之瀬まのせ川の支流大谷おおたに川が北流する。上之口かみのくち・下之口・田畑たばた馬場ばばふもとの集落があり、麓には山田郷の地頭仮屋が置かれ、馬場にかけて郷士集落があった。中世は山田村に含まれていた。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高五九二石余。「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高五三二石余。旧高旧領取調帳では高五二〇石余。享保一八年(一七三三)当時は上之口の門数六・屋敷数二、下之口の門数七・屋敷数三(「一向宗掛合印形帳」川辺町立図書館蔵)。当村を管轄する中山田庄屋役所が置かれていた。


中山田村
なかやまだむら

[現在地名]野市町中山田・みどり

兎田うさいだ村の西にあり、「土佐州郡志」は「東西六町許南北二町許、戸凡三十」と記す。地勢は南に開け、村の中央部を富家ふけ往還(現県道山北―野市線)が通る。香宗我部こうそがべ郷に属し、天正一六年(一五八八)の香宗分地検帳に村名がみえ、地積は兎田村新宮村と合せて五一町六反余。元禄地払帳では総地高一三一石余、うち本田高九五石余・新田高三六石余。本田高のうち一石余は蔵入地で残りはすべて乾庄右衛門知行、新田高のうち九石余は貢物地で残りは塩井善右衛門ら二人の領知。


中山田村
なかやまだむら

[現在地名]福山市熊野くまの

下山田しもやまだ村の南に位置する。くまヶ峰山麓にある熊野神社境内裏山で弥生時代の平形銅剣が発見されている。奈良時代前期には通称六本堂ろつぽんどう廃寺を建立するような勢力が当地にあったものと思われる。六本堂廃寺跡出土の軒平瓦は付近の草田そうた窯跡(県指定史跡)から出土した布目瓦と同質であり、草田窯を中心とする窯跡群の存在が注目される。中世、観応年間(一三五〇―五二)には渡辺氏が中山田城を築いた(備後古城記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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