中村粂太郎(読み)なかむらくめたろう

改訂新版 世界大百科事典 「中村粂太郎」の意味・わかりやすい解説

中村粂太郎 (なかむらくめたろう)

歌舞伎俳優。3世まであるが,初世が有名。久米太郎とも書く。(1)初世(1724-77・享保9-安永6) 2世嵐三右衛門の弟子の嵐門十郎の子。京都生れ。俳名鯉長。色子から1735年(享保20)京都で初舞台。成人して若女方となる。48年(寛延1)江戸に下り,7年間滞在し,上方式所作事で名を上げた。京坂に帰ってからは若女方として声望を高め,惣巻軸白大上上吉にまで進んだ。所作事の名人といわれ,娘方,傾城をよくした。74年(安永3)剃髪して京都に閑居。御家流の能筆家であった。(2)2世(1763-1808・宝暦13-文化5) 2世嵐三五郎の弟子で,はじめの名は嵐広次郎。若女方。1784年(天明4)に大坂中の芝居の座本となり,粂太郎を襲名した。京坂を中心に若女方の中堅として活躍し,武家女房を得意とした。(3)3世 生没年不詳。若いころ大坂で修業し,1809年(文化6)粂太郎を襲名して京都に上ったが,大成せずに終わった。
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朝日日本歴史人物事典 「中村粂太郎」の解説

中村粂太郎

没年:安永6.7.15(1777.8.17)
生年:享保9(1724)
江戸中期の歌舞伎役者。俳名鯉長。屋号丹波屋中村吉三郎の子。初め子供芝居に出ていたが,享保20(1735)年京都都万太夫座で大芝居の初舞台を踏む。元文4(1739)年若女形となり,また座本を兼ねる。寛延1(1748)年から宝暦5(1755)年まで江戸の舞台を勤め,好評であった。同6年以降は大坂と京都の舞台を交互に勤めた。安永3(1774)年出家して京都に閑居し,海印と号した。小柄だが容姿美しく,品格があった。姫,傾城を得意とし,また所作事をよくした。書,画,俳諧にすぐれ,毎年夏になると女性が扇に発句を書いてもらいたがったという。粂太郎の名跡は,幕末の3代目まで続き,いずれも若女形をよくした。<参考文献>『歌舞伎評判記集成』1・2期,『古今役者大全』(『日本庶民文化史料集成』6巻)

(加藤敦子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中村粂太郎」の解説

中村粂太郎(2代) なかむら-くめたろう

1763-1808 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
宝暦13年生まれ。2代嵐三五郎の門弟。天明4年2代を襲名,大坂塩屋九郎右衛門芝居の座本となる。寛政2年江戸中村座で演じ,6年大坂にかえる。傾城(けいせい)役を得意とした。当たり役は「恋飛脚(こいのたより)」の梅川など。文化5年7月9日死去。46歳。京都出身。前名は嵐房次郎。俳名は鯉長。屋号は大黒屋。

中村粂太郎(初代) なかむら-くめたろう

1724-1777 江戸時代中期の歌舞伎役者。
享保(きょうほう)9年生まれ。20年京都都(みやこ)万太夫座で初舞台。のち若女方や座本をつとめ,江戸中村座の舞台にたった。娘,傾城(けいせい)の役を得意とした。当たり役は「傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)」の夕霧など。安永6年7月15日死去。54歳。京都出身。俳名は鯉長。屋号は丹波屋。

中村粂太郎(3代) なかむら-くめたろう

?-? 江戸時代後期の歌舞伎役者。
寛政(1789-1801)のころから大坂の宮地芝居で修業し,文化6年3代粂太郎を襲名。若女方として濡事(ぬれごと)・憂事(うれいごと)を得意とした。京都出身。初名は松島鶴松。前名は嵐十次郎。俳名は鯉長。屋号は大黒屋。

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