日本歴史地名大系 「中津山村」の解説 中津山村なかつやまむら 宮城県:登米郡米山町中津山村[現在地名]米山町中津山南は六軒屋敷(ろつけんやしき)、北は瀬(せ)ヶ崎(さき)、東は柳淵(やなぎぶち)、西は町田(まちだ)の低地に囲まれた比高一〇メートルほどの低丘陵地に集落があり、周囲は迫(はさま)川の氾濫原。かつては大きく入込んだ石巻(いしのまき)湾の真ん中に突き出た島山であったので、中津山と称するようになったと伝える。近世には遠田(とおだ)郡に属し、古代の小田(おだ)郡も中世からは遠田郡に含まれていた。「日本後紀」延暦二三年(八〇四)正月一九日条に蝦夷征討のため、「小田郡中山柵」に糒一万四千三一五石・米九千六八五石を運んだとあり、この中山(なかやま)柵は、中津山と推定されている。弘仁六年(八一五)八月二三日の太政官符(類聚三代格)に、城塞を守らせるため「白河団一千人 安積団一千人 行方団一千人 小田団一千人」の兵を増加するとあり、この小田団を中山柵とする説もある。付近には城内(じようない)・上要害(かみようがい)・内要害(うちようがい)・上納(じようのう)などの地名があり、土塁や空堀も発見されていることから、中津山が古代の中山柵であるという説はかなり有力となっている。 中津山村なかつやまむら 宮城県:桃生郡桃生町中津山村[現在地名]桃生町中津山・城内(じようない)・新田(しんでん)・給人町(きゆうにんまち)・神取(かんどり)・高須賀(たかすか)北上川左岸に位置し、北上川の自然堤防上に集落を形成。気仙(けせん)道に沿う南北に長い大村。端郷として新田・神取・高須賀があり(封内風土記)、新田は近世初頭の新田開発で成立、神取は気仙道の宿、高須賀は鮭の名産地として知られた。ほかに通称として北部の四軒(しけん)、東方小丘陵地帯の城内、新田と神取間に黒沢氏の家臣が配されたという給人町、舟場(ふなば)などの地名が残る。慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)の葛西中に「なかて山の内 ふね五そう」とあり、当地のことと推定される。寛永六年(一六二九)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)に「桃生之内中津山」とみえ、三六貫七八四文、同所「新田起目」として二〇貫七四文が記され、登米伊達家二代白石刑部太輔(宗貞)に与えられている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by