中郡庄(読み)ちゆうぐんのしよう

日本歴史地名大系 「中郡庄」の解説

中郡庄
ちゆうぐんのしよう

現岩瀬町一帯を含む荘園。弘安大田文に「中郡庄三百八十二丁六段小」とあり、嘉元大田文には「二百八十三丁一段小」とある。当庄の成立および在地の動向については、鎌倉末期から南北朝期に成立したとみられる大中臣氏略系図(京都府福知山市瘤木桐村家蔵)に詳しい。略系図によると藤原氏摂関流の師通の子とされる頼継が上総介に任官し、この時「常州中郡六十六郷」を賜った。頼継の母は「ツマノ御局」なる女性であるが、師通の正妻の嫉妬により、頼継は藤原姓を名乗らず、藤氏の本姓大中臣を称したという。この頼継が後年中郡庄を本貫の地とする中郡氏遠祖である。前記事情は、大中臣氏が自らの出身を摂関家に結び付けるための伝承とみるべきで、頼継以前の正確な系譜はなお明らかにしがたいが、新治にいはり郡の分割の際、頼継が中郡の徴税を請負い、郡司職を得たことはほぼ史実と考えてよく、中郡はいわば頼継の私領と化したのである。その長子頼経は上総権守となり、中郡氏の直接の祖となった。後三年の役(一〇八三―八七)の後、頼経は源義家と主従関係を結び、下野塩谷しおや郡で陸奥の豪族清原真衡の養子海東小太郎成衡を討ったという。頼経の後は、秀郷流足利氏の出で頼経の養子となった経高が継いだが、「保元物語」に源義朝に従って登場する「中郡三郎」は経高に比定され、略系図にも「保元乱之時内裏参向、又平治之時同参入」と記される。

経高は長寛二年(一一六四)後白河院建立の蓮華王院に自らの所領を寄進し、こうして中郡庄が成立する。「吉記」承安四年(一一七四)三月一四日条に「蓮華王院御領常陸国中郡庄下司経高濫行事」とあるのが史料上の初見であるが、同年三月から九月にかけて経高の乱行が大きな問題となっており、最終的には後白河院が直接指示し、経高は召使および佐竹昌義・義宗、在庁等によって京へ召出され、平教盛に預けられることになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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