浜北市(読み)ハマキタシ

デジタル大辞泉 「浜北市」の意味・読み・例文・類語

はまきた‐し【浜北市】

浜北

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日本歴史地名大系 「浜北市」の解説

浜北市
はまきたし

面積:六六・六四平方キロ

県の西部に位置し、南と西は浜松市、北西は引佐いなさ郡引佐町、北は天竜市、東は天竜川を挟み磐田市・磐田郡豊岡とよおか村と接する。東境を天竜川が南北に流れ、北側は赤石山脈系の山地が広がる。西側は天竜川の氾濫原が隆起して形成された三方原台地がある。市域の大部分は天竜川によって形成された沖積平野上にあり、砂質土壌で水田耕作に不適である。中央部の浜北段丘上には黒ボクとよばれる腐食に富んだ土壌が堆積しており、市の主要産物である植木や苗木の畑として利用されている。気候は内陸性気味の太平洋岸気候に属し、年平均気温摂氏一六・三度で、温暖である。冬季には強い北西風が吹き、遠州地方ではこの風を「遠州の空っ風」とよぶ。市内の丘陵地や台地上には赤マツ林が広がる。天竜川にダムが造られる以前は、天竜川流域の木材は筏に組まれ、下流の浜松市中野なかの町まで運ばれた。また鉱山の鉱石も船を使用して運ばれた。

〔原始・古代〕

市域には約九〇の遺跡が知られている。北部の丘陵地帯には石灰岩の岩脈があり、石灰岩の採掘場であった根堅ねがた遺跡から昭和三〇年代に旧石器時代人とみられる化石人骨が発見された。梔池くちなしいけ遺跡からも旧石器時代の遺物が確認されている。縄文時代遺跡としては北谷きたたに・梔池両遺跡が知られている。弥生時代には浜北段丘の東縁部に南北約二キロに及ぶ遺跡群が形成された。北半部は芝本しばもと遺跡群、南半部は東原ひがしばら遺跡群とよぶ。古墳は南西部と北部に集中的に営まれている。南西部にある内野うちの古墳群は前期の前方後円墳である赤門上あかもんうえ古墳を筆頭に、権現平山ごんげんひらやま七号墳・観音かんのんツブラ古墳・稲荷山いなりやま古墳などの中期円墳、二本にほん積石塚古墳群など古い時期の古墳が目立つ。北部の段丘に営まれた古墳はより新しく、後期の群集墳が主体で、三〇〇基以上確認されている。ほとんどが小円墳であるが、興覚寺後こうかくじうしろ古墳は前方後円墳で、当地方最古の横穴式石室をもつ。巨石を使った新しい横穴式石室をもつ向野むかいの古墳や鈴付帽を出したスズミノ御所ごしよ古墳は、北部にある麁玉あらたま古墳群に含まれる。宮口みやぐち一帯の丘陵地帯では奈良時代から陶器生産が行われた。窯跡総数約三〇基からなる宮口古窯跡群の最盛期は平安時代中期で、鎌倉時代まで続いた。

「続日本紀」には、霊亀元年(七一五)に地震によって麁玉河(天竜川)が塞止められ、天平宝字五年(七六一)には麁玉河の堤防三〇〇丈余が決壊し、多くの人夫を動員しこれを修築したとの記事がみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報