中野逍遥(読み)なかのしょうよう

改訂新版 世界大百科事典 「中野逍遥」の意味・わかりやすい解説

中野逍遥 (なかのしょうよう)
生没年:1867-94(慶応3-明治27)

漢詩人。宇和島の生れ。名は重太郎,字は威卿。逍遥は号。1883年上京し,大学予備門を経て,94年東京帝大文科大学漢学科を卒業した。在学中は佐佐木信綱,高橋作衛らと親交があった。卒業後は研究科に進み《支那文学史》を起草未完)する一方,田岡嶺雲らと雑誌《東亜説林》を創刊し活躍を期待されたが,同年11月28歳で病没した。著に《逍遥遺稿》2巻(1895),《慈涙余滴》(未完の政治小説)がある。彼はおのれのはげしい恋愛感情を漢詩に託したが,その青春の情熱憂愁とは,伝統的詩型や表現法の拘束にうちかって自由奔放に吐露されている。
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百科事典マイペディア 「中野逍遥」の意味・わかりやすい解説

中野逍遥【なかのしょうよう】

漢詩人。本名重太郎(しげたろう),字は威卿。別号澹艶堂(たんえんどう)など。伊予国宇和島生れ。早くより漢学を学び,東京帝国大学文科大学漢学科卒。在学中から漢詩・漢文をよくし,将来を嘱望されていたが,卒業した年に肺炎により死去。恋愛の情熱や憂愁を込めた漢詩が多い。その詩文の散逸を惜しんだ先輩・友人らにより,一周忌に《逍遥遺稿》2巻が刊行,詩300余首ほかを収める。島崎藤村詩集《若菜集》で逍遥の死をいたんだ。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中野逍遥」の解説

中野逍遥 なかの-しょうよう

1867-1894 明治時代の漢詩人。
慶応3年2月11日生まれ。帝国大学卒業後研究科にすすんだが,在学中の明治27年11月16日肺炎で死去。28歳。没後,「逍遥遺稿」が刊行され,制約のおおい漢詩に恋愛感情を自由奔放にうたいこむ詩風で島崎藤村,吉井勇らに影響をあたえた。伊予(いよ)(愛媛県)出身。本名は重太郎。字(あざな)は威卿。別号に狂骨子,澹艶堂など。

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