中野郷(読み)なかのごう

日本歴史地名大系 「中野郷」の解説

中野郷
なかのごう

中世の郷名。郷域はつまびらかではないが、現中野区・杉並区に新宿区の一部を加えた範囲と考えられる。貞治元年(一三六二)一二月一七日の旦那願文(熊野那智大社文書)に「武蔵国多(摩)郡中野郷 大宮住僧 初度丹波暁尊」とみえ、大宮は現杉並区大宮おおみや二丁目の大宮八幡宮である。この交名は紀州那智山御師村松盛甚大弐阿闍梨坊に提出されたもので、大宮住僧を通しての熊野信仰組織を知ることができる。年未詳四月二三日の尭観書状(金沢文庫蔵湛稿戒裏文書)に「中野辺くすし(医師)なく候間」とみえる。同書状は南北朝期のものと推定され、中野辺は広く当郷をさすと考えられるが、武蔵国船木田ふなきた(現日野市)にも中野郷があるので確定はできない。

中野郷
なかのごう

夜間瀬よませ川扇状地の末端に発達した中野郷は、令制に基づく公領の郷ではなく、既に荘園化した中野牧のうちに開発が進んで耕地化し荘園的な性格をもったものと解される。東・中・西の三条に区分され、中野本郷は中条にあたる所で、現在の五箇ごか南宮なんぐうの地域であろうと推定される。

平安時代末に中野西条がみえるが、藤原助広が建久三年(一一九二)一二月、この地の地頭職に補任されて以来、中野能成が建長年中(一二四九―五六)以前に中野総地頭職であったことが、建長元年一二月一五日の子息忠能への譲状(「中野能成自筆譲状」市河文書)で知られる。

中野郷
なかのごう

田河たがわ庄内の一郷。建永元年(一二〇六)六月五日の藤原兼子申状(三長記)に「中野」とみえる。同申状によれば、伊部いべ(現湖北町)とともに後白河院庁下文を受けて実任(徳大寺か)が領知してきたが、同院没後の判決の遅れを嫌って調度文書とともに兼子に譲られており、兼子がその安堵を求めている。その後の相伝関係は定かではないが、南北朝期には大覚寺領となっており、応安四年(一三七一)一二月一五日、「教王常住院領近江国田河庄内中野郷」が、この年に行われた伊勢南朝勢攻撃以後乱妨を退け、雑掌に引渡されている(「右衛門尉等連署渡状」下郷共済会蔵)

中野郷
なかのごう

和名抄」高山寺本・東急本とも訓を欠く。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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