中魚屋町(読み)なかうおやちよう

日本歴史地名大系 「中魚屋町」の解説

中魚屋町
なかうおやちよう

中京区錦小路通柳馬場西入

東西に通る錦小路にしきこうじ(旧錦小路)を挟む両側町。中央を堺町さかいまち通、東側を柳馬場やなぎのばんば(旧万里小路)、西側を高倉たかくら(旧高倉小路)が南北に通る。

平安京の条坊では、左京四条四坊二保五町北及び同六町南。平安中期以降は錦万里小路の西にあたる。

この地付近、錦小路高倉美濃の武士多治見国長の宿所があった。元亨四年(一三二四)九月一九日、六波羅に洛中四八ヵ所篝屋の兵及び左京御家人等が集められ、この多治見国長の宿所と三条堀川の土岐頼貞の宿所を襲撃した(「太平記」巻一)


中魚屋町
なかうおやちよう

[現在地名]長浜市元浜町もとはまちよう

北国街道から東へ進む東西通りの両側町。南は中呉服なかごふく町・大谷市場おおたにいちば町。西は西魚屋町に続く。朱印地。慶安四年(一六五一)検地帳(川崎文書)によれば、「魚屋町中南かわ」に屋敷地一〇、「魚屋町中北かわ」に屋敷地四があげられ、うち明屋敷一となっている。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数一五(借家一)、男三八・女三九で、町代・横目が置かれ、納屋二・塩屋二・酒屋・医者・木綿屋・研屋・古手屋がいた。享保一五年(一七三〇)の長浜人数留(今村文書)によれば家数一七、男四七・女三七。


中魚屋町
なかうおやちよう

[現在地名]堺市車之くるまのひがし二―三丁・材木ざいもくひがし二―三丁

市戎いちえびす町の南、北材木きたざいもく町と車之町の間の東西路を挟む両側町。南は与力同心屋敷。元禄二年(一六八九)堺大絵図に「中魚屋町」とあり、北頬一〇筆・南頬一九筆で町会所は北頬の東から二筆目に所在。「中之店なかのたな」の異称もあり(申唱之町名「堺市史」所収)、所属町組は西天神前にしてんじんまえ町に同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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