東魚屋町(読み)ひがしうおやちよう

日本歴史地名大系 「東魚屋町」の解説

東魚屋町
ひがしうおやちよう

[現在地名]中区たて町・本通ほんどおり

東は平田屋ひらたや川を挟んで堀川ほりかわ町に対する縦町で、北は城濠に臨む。西は立町。町内を山陽道が東西に通ずる。城下中通組に属した。「むかしより魚を商ふもの多くすめり」(知新集)という。城下では京橋きようばし(現南区)西魚屋町とともに魚市場が立ち、この地がその中間に位置することから中の棚なかのたなとも、また魚の棚うおのたなとも称された。


東魚屋町
ひがしうおやちよう

上京区椹木町通西洞院西入

町の中央を南北に小川おがわ通、東西に椹木町さわらぎちよう(旧中御門大路)が通る。町の中央以南は平安京条坊の左京一条二坊四保一六町の北側で、平安中期以降は中御門大路西洞院なかみかどおおじにしのとういん大路西の地。平安時代前期は、桓武天皇の皇子賀陽親王の「高陽院」の地(拾芥抄)。明徳二年(一三九一)一二月二六日には治部大輔義重が、中御門油小路に五百余騎をもって陣を敷いた(明徳記)


東魚屋町
ひがしうおやまち

[現在地名]柳川市東魚屋町

瀬高せたか町の南に並行する東西の通りに沿った両側町。東は細工さいく町一丁目町人地。寛政三年(一七九一)の町小路絵図には、瀬高町通りに並行する東西の通りに「東魚町」、南が北長柄きたながえ小路に続く南北の通りに「東町」、北が瀬高町へ至る南北の通りに「横町」と記されている。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば横町を合せた竈数九二。東西の通りの道幅二間・長さ七五間余、南の通りの道幅二間余・長さ七五間余であった(柳川惣町図)。元和七年(一六二一)以降西魚屋にしうおや町と隔月の魚市場であったが、地所不便のためほどなく廃絶してしまったという(郡村誌)


東魚屋町
ひがしうおやちよう

[現在地名]長浜市元浜町もとはまちよう

西の中魚屋町から続く東西通りの両側町。南は大谷市場おおたにいちば町、北は鍛冶屋かじや町に続く。朱印地。慶安四年(一六五一)検地帳(川崎文書)によれば、「魚屋町東南かわ」に屋敷地一四、「魚屋町東北かわ」に屋敷地一三があげられる。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数二二(借家二)、男五二・女四八で、町代・横目が置かれており、納屋八・酒屋・木綿屋表具屋・木葉屋がいた。


東魚屋町
ひがしうおやちよう

中京区錦小路通麩屋町西入

東西に通る錦小路にしきこうじ通を挟む両側町。町の中央部を南北に富小路とみのこうじ通が通る。町の西は柳馬場やなぎのばんば(旧万里小路)

平安京の条坊では、町の北側は左京四条四坊三保一一町南側、同南側は同保一二町北側の地。平安中期以降は、錦富小路の西にあたる。

町名は、初め「中ノ町」(承応二年新改洛陽並洛外之図)と称していたが、魚商人の集住をみるなかで、「東魚ヤ丁」(元禄末期洛中絵図)となり、「東魚屋町」として定着した。


東魚屋町
ひがしうおやまち

[現在地名]久留米市通町とおりまち日吉町ひよしまち

しん町一丁目からなが町一丁目をつなぐ横丁。この街区に魚屋が連なることから「東魚の棚」と称されたという(久留米市誌)


東魚屋町
ひがしうおやちよう

下京区六条通室町東入

東西に通る六条通(旧六条大路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京七条三坊四保九町西北隅と六条大路路上にあたり、平安中期以降は六条室町小路の地。当町南側は、院政期以前、神祇伯大中臣輔親の邸六条院があった(拾芥抄)

寛永以後万治以前京都全図及び寛文後期洛中洛外之絵図に「東魚ヤ丁」とあり、以後変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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