西魚屋町(読み)にしうおやまち

日本歴史地名大系 「西魚屋町」の解説

西魚屋町
にしうおやまち

[現在地名]柳川市西魚屋町

札辻本ふだのつじほん町の通りの西に並行する南北の通りに沿った両側町。南は片原かたはら町、北はかに町に達し、中ほど東側に八百屋やおや町が続く。町人地。「柳河明証図会」は当町を西町と記し、「西の横町ハ寺町。東の横町ハ魚屋町なり」とする。寛政三年(一七九一)の町小路絵図には西魚町とある。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば竈数八七。道幅二間・長さ一一〇間余。西方てら町の南北に続く通りは道幅三間・長さ六九間余。南端の瑞松ずいしよう院と光樹こうじゆ寺との間の東西の通りは道幅二間半・長さ五一間、北端の報恩ほうおん寺と台照たいしよう院の間の東西の通りは道幅一間余・長さ三〇間余(柳川惣町図)


西魚屋町
にしうおやちよう

[現在地名]中区本通ほんどおりふくろ

革屋かわや町の南に位置する横町であるが、古くは町域に動きがあったらしい。元和五年広島城下絵図では、西堂せいとう川東沿いの縦筋に「西魚屋町二町六間」と記す。城下中通組に属した。町名は、魚商人が多く居住し市場が開かれたためといわれ、北東の平田屋ひらたや川沿いの東魚屋町に対して西魚屋町と称する。また町内に戒善かいぜん寺があった時は戒善寺かいぜんじ町とも称し、石工が多く住したために石切屋いしきりや町ともよばれた。

寛永二年広島町数家数改め(済美録)には本家五四軒・借家二三軒とある。明暦の切絵図では家数四二、町間数一五〇間二尺五寸、天和の切絵図では四六軒で間数は同じ。


西魚屋町
にしうおやちよう

中京区錦小路通高倉西入

東西に通る錦小路にしきこうじ(旧錦小路)を挟む両側町。東側は高倉たかくら(旧高倉小路)に面する。

平安京条坊では、左京四条四坊二保三町南及び同四町北。平安中期以降は錦高倉小路東の地にあたる。

応仁の乱以前、当町から祇園会山鉾「いたてん(韋駄天)山」を出した(祇園社記)が、乱後廃絶。また、この頃当地に酒屋「宗祐」がいた(「酒屋交名」北野天満宮史料)


西魚屋町
にしうおやちよう

[現在地名]長浜市元浜町もとはまちよう

北国街道から西へ進む東西通りの両側町。南は南片原みなみかたはら町・中呉服なかごふく町、東は北国街道を挟んで中魚屋町。朱印地。慶安四年(一六五一)検地帳(川崎文書)によれば、「魚屋町西南かわ」に屋敷地六があげられ、うち明屋敷三、「魚屋町西北かわ」に屋敷地四があげられ、うち明屋敷一。


西魚屋町
にしうおやちよう

下京区六条通室町西入

東西に通る六条通(旧六条大路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京七条三坊一保八町北側と六条大路路上にあたり、平安中期以降は六条室町小路の地。

寛永以後万治以前京都全図・寛文後期洛中洛外之絵図に「西魚ヤ丁」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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