久末村(読み)ひさすえむら

日本歴史地名大系 「久末村」の解説

久末村
ひさすえむら

[現在地名]高津区久末

東は蟹谷かにがや村、西は都筑つづき山田やまた(現横浜市港北区)、南は同郡高田たかた(現港北区)こまはし(現港北区)、北は清沢きよさわ村・子母口しぼくち村に接する。西境を流れる高橋たかはし川を灌漑用水として利用。西方を中原なかはら道が通る。小貝谷こがいやと財神さいじん御堂谷みどうやと勝田屋敷かつたやしき番匠免ばんしようめん伊勢原いせはら籠場谷ろうばやと横大道よこおおみちなどの小字がある。田園簿に村名がみえる。

寛永一〇年(一六三三)以降旗本佐橋領。


久末村
ひさすえむら

[現在地名]福間町久末・若木台わかぎだい一―六丁目

西郷さいごう川中流域の右岸に位置する。南東畦町あぜまち村、西は津丸つまる村。鎌倉期の宗像宮年中諸神事御供下行事(宗像大社所蔵文書/神道大系神社編四九宗像)の八月一五日の条に「久末より御鏡九枚」とある。「宗像大菩薩御縁起」には「久米明神」が載る。正平二十三年宗像宮年中行事(宗像大社所蔵文書/神道大系神社編四九宗像)では第一大神宮仏神事の八月一五日清酒神事を西郷・久末役とする。また久米明神と久末明神がみえるが同一社をさしており、久末明神の条には一二月一八日の神事と心経供養仏事が記される。


久末村
ひさすえむら

[現在地名]鳥取市久末・南栄町なんえいちよう

東大路ひがしおおろ村の南、大路山の南麓に位置する。越路こいじ川の東岸で、南の古郡家ここおげ村と民家が入組んでいた。東に中世の大籠山城跡があり、若桜わかさ往来筋には枝郷長砂ながすな村がある(因幡志)。拝領高は五四五石余、本免五ツ九分。安政五年(一八五八)の生高六六二石余、物成三一六石余(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。長谷川氏・和田氏・前田氏・大島氏・一色氏の給地があった(給人所付帳)


久末村
ひさすえむら

[現在地名]蒲生町久末

前郷まえごう川の南岸に位置し、東は下久徳しもぎゆうとく村。同村との境に蒲生城跡がある。中世は蒲生院のうちにあった。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、蒲生院内の久得ぎゆうとく七二町余のうちに「久末 名主七十房跡」とみえる。天正八年(一五八〇)三月吉日の島津氏老臣連署坪付(蒲生八幡神社文書)では、正八幡若宮(現蒲生八幡神社)領として蒲生院内の「久末名」二段が浮免とされている。

慶長一九年(一六一四)八月七日の島津氏老臣連署知行目録(「正八幡若宮縁起」蒲生八幡神社蔵)には「蒲生久末村」とみえる。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高六五五石余。


久末村
ひさすえむら

[現在地名]安岐町朝来あさく

南流して安岐川に合流する朝来野あさくの川の下流部両岸に細長く展開する。東は山嶺を境に恒清つねきよ村、南は弁分べんぶ村。安岐郷久末の遺称地。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三八九石余、家数五六、うち百姓二〇、庭屋・へ屋・牛屋三四、人数一二〇、うち百姓二一・名子六、牛一八・馬一。正保郷帳では安岐郷に属し、田方一八〇石余・畑方九五石余で、柴山有・竹山有・新田有と注記される。天保郷帳では高四五八石余。幕末期の庄屋は稙田氏。


久末村
ひさすえむら

[現在地名]熊本市春日かすが二丁目

西は春日村、東は坪井つぼい川を挟んで古町ふるまち村に対する。建武元年(一三三四)四月二六日の後醍醐天皇綸旨案(詫摩文書)によれば、「肥後国神蔵庄寺・久末名等田畠屋敷」は詫磨五郎次郎幸秀の当知行であった。慶長一三年(一六〇八)検地帳では、田方一〇町五反余・畠方一五町一反余、分米二五二石六斗余で、竈数二三・家数四四、男二六・女一一、せがれ七・おち一、牛一〇とある。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では横手又右衛門手永に属し、当竿前は田八町四反余・畠一二町余である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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