久礼村(読み)くれむら

日本歴史地名大系 「久礼村」の解説

久礼村
くれむら

[現在地名]中土佐町久礼

高岡郡海浜部のほぼ中央に位置し、東に久礼湾が開ける。北はゆす山方面に発して久礼湾に注ぐ久礼川を限り、西は山地芳野よしの(現大野見村)床鍋とこなべ(現窪川町)に境し、南は火打ひうちもりから東北方に延びる山地によって小草こぐさ村・篠葉ささば村・押岡おしおか村に接する。久礼地方の中心的村落で、久礼本村ともいう。

建長二年(一二五〇)一一月日付の九条道家初度惣処分状(九条家文書)に「土佐国幡多郡 本庄 大方庄 山田庄 以南村 加納久礼別符」とあり、道家が子実経に譲与した幡多はた(現幡多郡など)の加納地「久礼別符」は当村を中心にした地域と考えられている。幡多庄の成立は元久三年(一二〇六)から嘉禎三年(一二三七)の間とみられるので、久礼が加納地になったのは元久三年から建長二年までの間と推測される。前記処分状では幡多郡に属したようにもとれるが、その点は不明。

大坂おおさか谷には池田氏がいたが、承久の乱後、佐竹氏が池田氏に代わって当地に勢力を張った。佐竹氏の活躍は「蠧簡集拾遺」などに収める佐伯氏関係の文書からうかがわれ、南北朝時代を通じて幡多庄を侵略、久礼地方を一円支配するようになったと考えられる。戦国時代には一条氏の重臣として久礼城に居城、高岡郡東部の守りを固めていたが、元亀二年(一五七一)頃長宗我部氏の軍門に降った。

久礼村
くれむら

[現在地名]米原町三吉みよし

番場ばんば村の北東に位置し、中山道に沿う。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)に村名がみえ、高一一二石余。慶長高辻帳では高一三五石余。江戸時代を通じて彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳によると人数六〇四。番場宿助郷を勤めた(坂田郡志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報