乙丸村
おとまるむら
[現在地名]湯布院町川上 乙丸
並柳村の南に位置し、村域は大分川の支流白滝川の両岸にわたる。慶長五年(一六〇〇)二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)にはみえないが、小倉藩慶長人畜改帳には登載されており、家数五一・人数一一七(うち庄屋・肝煎二・本百姓一一・名子一三)、牛二一・馬一〇。庄屋は市左衛門で同人捌分(手永)の村は当村のほか荒木村・徳野村(内徳野村)・津々良村・山浦村・畑村・小平村であった。元和八年(一六二二)の高は三五〇石余、家数九三・人数一九五(うち惣庄屋一、本百姓・小百姓二三、名子一六)、牛二六・馬一四(小倉藩元和人畜改帳)。
乙丸村
おとまるむら
[現在地名]若松区乙丸・花野路一―三丁目・青葉台東一―二丁目・青葉台西一―六丁目など
有毛村の南に位置する。北西の一部は響灘に臨み、南は大鳥居村、西は山鹿村(現芦屋町)。集落は本村のほかに椎牟田・正ノ浦(庄浦)があり(続風土記拾遺)、「地理全誌」では蜑瀬・大野地もみえる。小早川時代の指出前之帳では有毛村の枝郷として扱われ、同村に含まれて高付された。
乙丸村
おとまるむら
[現在地名]北野町乙丸
陣屋川支流の池田川中流左岸に位置し、北と西は稲数村に接する。北方に小規模な飛地が四ヵ所散在。赤司村の東に接する飛地内の餅田遺跡で弥生時代の甕棺墓が出土、定格遺跡からは古墳時代の住居跡が発掘された。建仁元年(一二〇一)河南郡「乙丸」の九町などに高良社(現久留米市)温父社一宇の造営役が賦課されている(高良宮造営田数注文)。
乙丸村
おとまるむら
[現在地名]金沢市乙丸町
浅野村の北東、卯辰山北西麓に位置。正保郷帳によれば高三〇九石余、田方一九町五反余・畑方一町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三一九石、免七ツ、小物成は山役七一匁(三箇国高物成帳)。安政二年(一八五五)の高二六九石、家数二三(うち頭振六)・人数一一八、神宮寺村・高柳村入会地の新田六石余(「高免家数人数等書上」亀田文書)。大根・黍・蕗・菜種・麻・藍などを栽培(続金沢北郊の変貌)。南に下野間神社がある。
乙丸村
おとまるむら
[現在地名]松任市乙丸町
平松村・二口村の南に位置し、西は剣崎村。慶長一二年(一六〇七)六月の中村用水普請人夫ニ付達書(松任町史)に村名がみえる。正保郷帳では二口村と連記されている。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高六〇七石、高五ツ五歩、小物成は鳥役七目、ただし鷹場につき免除(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数一二・百姓数二二(高免付給人帳)。
乙丸村
おとまるむら
[現在地名]森町三倉
大府河村の北、大府川上流舟場沢流域にあり、大府川より舟場沢沿いに秋葉街道が通る。三倉郷一四ヵ村の一。正保郷帳に村名がみえ、永高三貫五六二文、幕府領。柴山と注記される。元禄郷帳では高四九石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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