乙部村(読み)おとべむら

日本歴史地名大系 「乙部村」の解説

乙部村
おとべむら

[現在地名]田老町 乙部・荒谷ありや野原のはら青砂里あおざり越田こしだ和野わの駿達しゆんだつたきさわ乙部野おとべの重津部おもつべ重津部北おもつべきた青野滝南あおのたきみなみ青野滝あおのたき青野滝北あおのたききた小堀内南こぼりないみなみとぶ長畑ながばたけ新田しんでん新田平につただいら・ケラス

田老村の北に位置し、東は海に面する。崎・明神みようじん崎などがあり長い海岸線をもつが、田老川・長内おさない川の河口青砂里がわずかに田老浦に面するほか、大部分荒磯が続く。乙戸とも記した。浜街道が通り、つかとうげには一里塚跡がある。「三閉伊路程記」に「ありや、家拾五軒、乙部、家五拾軒、乙部は町屋作に而田老と家続也、村入口に山の上に熊野権現の社有、浦東北の出崎を青申と云、本山権現社、いなり社有、三王嶋とて松生ひたる大岩海中に有」とある。

江戸時代初期、野田掃部助の知行地となるが、延宝六年(一六七八)一族野田理右衛門に譲与(参考諸家系図)


乙部村
おとべむら

[現在地名]津市乙部・寿ことぶき町・末広すえひろ町・海岸かいがん

塔世とうせ(安濃川)岩田いわた川に挟まれた三角洲地帯の中央に位置し、北は中河原なかがわら村に接する。低湿な塩田地帯の中のやや高燥な地に民居し、付近は早くから乙部御厨や乙部御園として、伊勢神宮の支配下にあった(神鳳鈔)安濃津あのつ付近の海岸一帯には塩田が多く、小丹おにの塩屋や安濃の塩釜などとして人々に知られた。「安濃名所記」にも「此里近世迄皆塩屋にて東は一面に塩浜なりしと云、是にて元禄の頃迄は専ら塩をやきしと土人いへり」とある。伊勢神宮との所縁を保ちながらも、地侍が成長していたと思われ、「平家物語」にも乙部を姓とする武士が登場する。鎌倉期の承久二年(一二二〇)一〇月一四日の関東下知状(楓軒文書纂)には乙部御厨内の乙部郷の地頭として「新藤内咸(ママ)定法師孫娘彦熊」の名がみえ、正安二年(一三〇〇)八月二三日の六波羅裁許状(大友文書)に、乙部御厨の地頭源幸貫の名がある。室町期になると乙部氏の名が散見するようになり、安濃あのう郡・奄芸あんげ郡に勢力をもった長野氏の与力被官衆として、乙部氏の活躍が目立ってくる。


乙部村
おとべむら

[現在地名]爾志にし郡乙部町字滝瀬たきせ・字元町もとまち・字緑町みどりちよう・字館浦たてうら・字姫川ひめかわ・字旭岱あさひたい

近世から明治三五年(一九〇二)までの村。現乙部町の南端部に位置し、南はとまり(現江差町)姫川(乙部川)が西に流れ、日本海に注ぐ。乙部はアイヌ語で「ヲトウンベ」、沼のある所の意という(地名考并里程記)。寛永一〇年(一六三三)幕府巡見使一行は舟で「ヲトベ 瀬茂内」を巡見後引返している(福山秘府)。「津軽一統志」には「おとへ 是迄二里 狄おとな見候内 家五十軒程」「乙部村 川有 しやも狄共入交り」とある。元禄郷帳・天保郷帳に乙部村とみえ、享保十二年所附には乙部村と村内の地名として、「帆柱石」「相泊り」「飯の下」「穴澗」「ぜら泊り」がみえる。元禄一三年(一七〇〇)には松前藩重臣下国新五兵衛の支配地(支配所持名前帳)。元文二年(一七三七)松前藩は当村百姓の訴えどおり、下国氏は地頭(領主)ではないとして、百姓らの地屋敷・納屋場を認めている(福山秘府)


乙部村
おとべむら

[現在地名]都南村乙部

北上川と西流して同川に合流する乙部川の合流点付近一帯を占め、北は黒川くろかわ村、西の北上川対岸は西徳田にしとくた(現矢巾町)、南は栃内とちない村・北沢きたざわ村・江柄えがら(現紫波町)、東の乙部川上流は大萱生おおがゆ村。北東部は山間地で、南西部平坦地を北上川に沿って遠野街道が通る。弘安三年(一二八〇)五月二五日の中尊寺経蔵別当永栄譲状(中尊寺文書)に「乙部村」とみえ、同村にある白山講田一町と屋敷が弟子の朝賢に譲与されている。同村には中尊寺金色堂寺役物が賦課されていたが、元徳二年(一三三〇)・正慶元年(一三三二)の両年分が未納となり、訴訟になっている(同二年二月二八日「頼勝書状」同文書)。康永三年(一三四四)六月五日、平忠泰は中尊寺別当領である当村などを別当代頼禅に引渡している(「平忠泰打渡状」同文書)


乙部村
おとべむら

明治三五年(一九〇二)から昭和四〇年(一九六五)までの村。明治三五年に乙部村・小茂内こもない村・突符とつぷ村・村・蚊柱かばしら村が合併して二級町村乙部村が成立、各村は大字となる。同年の戸数一千六・人口七千二一二(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)。昭和一四年五大字が廃され、滝瀬たきせ元町もとまち緑町みどりちよう館浦たてうら姫川ひめかわ旭岱あさひたい富岡とみおか鳥山とりやま栄浜さかえはま栄野さかえの元和げんな潮見しおみ花磯はないそ豊浜とよはまの一五字となる。


乙部村
おとべむら

[現在地名]豊田市乙部町

かご川と伊保いぼ川に挟まれ、北西部は猿投山麓に続き、山麓を中心に溜池が数多くある。中世の高橋たかはし庄内には、乙部郷が存在したという。寛永郷帳時には幕府領、元禄郷帳時には金田与惣右衛門領、旧高旧領取調帳には青山三之助領となっている。このうち金田氏は四千石の旗本で、元禄一一年(一六九八)市域では乙部・御船みふねの両村を領有するが、同一四年には三河の知行地は再び美濃に移され、その後青山氏領となった。


乙部村
おとべむら

[現在地名]松阪市乙部町

櫛田くしだ川下流右岸にあり、久保くぼ村の東にある。「神宮雑例集」に「音部御園」、「神鳳鈔」に「内宮音部御薗四斗、六九十二月」とあり、当地には中世伊勢神宮領が成立していた。「多気郡乙部村地誌」(乙部町自治会蔵)によれば、南北朝期仁木義長に押領され、永享年中(一四二九―四一)以後北畠氏の支配下となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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