日本大百科全書(ニッポニカ) 「九州征服」の意味・わかりやすい解説
九州征服
きゅうしゅうせいふく
豊臣秀吉(とよとみひでよし)が全国統一の一環として実施した島津氏征服の戦役。16世紀末、九州の戦国動乱は島津、大友、龍造寺(りゅうぞうじ)氏の鼎立(ていりつ)状態にあった。1584年(天正12)島原で島津氏と戦った龍造寺隆信(たかのぶ)が敗死し、そのあと大友氏は島津氏に圧迫されるようになった。この事態に際し、1585年10月、秀吉は勅諚(ちょくじょう)を盾にとり、島津氏に九州の停戦を命じた。これに対し島津氏は翌1586年正月、「島津家は頼朝(よりとも)以来の名家、羽柴(はしば)(豊臣秀吉)の関白は笑止」といってこれを拒絶した。また、大友氏が大坂城で秀吉に謁し島津氏討伐を願ったこともあって、1587年、秀吉は豊後(ぶんご)側と筑紫(つくし)側から兵を進めて九州諸国を平定し、同年5月、島津氏を降伏させた。
この結果、秀吉は九州全域を掌握し、島津氏に薩摩(さつま)、大隅(おおすみ)の領地安堵(あんど)をしたほか、諸大名の領域を定めて九州国割りを行った。そして、島津氏に琉球(りゅうきゅう)に対し服属交渉をするよう命じ、対馬(つしま)の宗(そう)氏にも、対馬一国を安堵するかわりに、朝鮮国王に対し日本服属と明(みん)征服の先導をするよう交渉せよと命じた。また、このとき宣教師追放令を出すとともに、長崎を直轄地として、1588年鍋島直茂(なべしまなおしげ)を長崎代官に任じ、さらに海賊取締令を出すなど、周辺諸国を服属させ、貿易関係を独占し、キリスト教を抑えるという対外関係への態度をはっきりさせるようになった。
[北島万次]
『中村栄孝著『日鮮関係史の研究 中』(1969・吉川弘文館)』▽『鈴木良一著『豊臣秀吉』(1954・岩波書店)』