亀山村(読み)かめやまむら

日本歴史地名大系 「亀山村」の解説

亀山村
かめやまむら

[現在地名]真岡市亀山・鬼怒きぬおか

鬼怒川左岸の段丘の東側、五行ごぎよう川に入る川の浅い谷間に位置して熊倉くまくら分に向い合い、東は西郷にしごう村に接する。慶長六年(一六〇一)幕府領、のち宇都宮藩領。慶安郷帳によれば、田高二六一石余・畑高一八五石余。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、改革組合村では幕府領と烏山藩領の相給で、旧高旧領取調帳では幕府領四七二石余・烏山藩領分一二八石余。承応二年(一六五三)奥平氏、寛文一一年(一六七一)松平氏、宝永四年阿部氏により、宇都宮藩の検地を受けている(天保一四年「村書上帳」鈴木敏行文書)


亀山村
かめやまむら

[現在地名]黒羽町片田かたた亀久かめひさ

那珂川東岸丘陵裾にあり、北は木手沢こてざわ村、西は山田やまだ村。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「亀山」がみえ、一三三石(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)。慶安郷帳には高四〇一石余(田三一七石余・畑八四石)の黒羽藩領亀山村と、高五九五石余(田三八五石余・畑二一〇石余)の烏山藩領亀山村が記される。


亀山村
かめやまむら

[現在地名]田主丸町上原かみはる

門上かどのうえ村の北に位置する。屋敷地は雲雀津留ひばりつる溝・はる溝と観音津留かんのんつる溝の中間にある(上三郡絵図)。本高は三四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高五〇石・役高一一六石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦二石八斗余・小麦一石五斗余・菜種七斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代七斗五升、人数一六、馬一(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一一七石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一町二反余・開田五反余・畑田三町九反余・畑二町九反余・居屋敷一反余。


亀山村
かめやまむら

[現在地名]倉敷市亀山

加須山かすやま村の東に位置。もと児島こじま湾の奥部にあたり、近世初期には葦原であったと思われる。承応元年(一六五二)旗本早島・帯江両戸川氏の共同見立てを受け、羽島はしま村五郎右衛門(亀山氏)二日市ふつかいち村九郎右衛門(平松氏)・加須山村市郎左衛門(尾崎氏)の三人の庄屋が開発した百姓寄合新田である(享保二年「農家常不退鈔」尾崎家旧蔵文書)。当初は当新田と称したが(寛延四年「加須山村明細帳控」同文書)、のち開発者亀山氏にちなんで亀山村と称し、代々同氏が庄屋を世襲した。


亀山村
かめやまむら

[現在地名]黒磯市亀山

北は那珂川を隔ててはら村枝村の蕪中かぶちゆう(現那須郡那須町)、西は岩崎いわさき村、南に入会原野大輪地おおわじ原が広がる。那須野ヶ原北部に位置し、集落は那珂川右岸段丘にある。寛永二〇年(一六四三)の両弥六小屋村年貢割付状(室井昭文書)に村名がみえ、同年那須藩領から幕府領となる。元禄一四年(一七〇一)の村明細帳(同文書)では、本田分一石余は上畑八畝余・中畑一反余・下畑五畝余、新田分五石余は中畑二反余・下畑一町四反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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