二箇村(読み)にかむら

日本歴史地名大系 「二箇村」の解説

二箇村
にかむら

[現在地名]峰山町字二箇

竹野川の支流鱒留ますどめ川の中ほどに位置し、東一面に山を負う。集落は久美浜街道沿いに開けた。東は佐古田さこた山嶺の中央をもって長岡ながおか村、西は久次ひさつぎ村、南は五箇ごか村、北は新治にんばり村に接し、久美浜街道から峯山町への道が二箇から分岐する。枝村に苗代なわしろ村がある。

中世には石清水いわしみず八幡宮(現八幡市)領二箇保の地で、文明一一年(一四七九)一二月日付石清水八幡宮領所々勘定状(石清水文書)

<資料は省略されています>

とみえる。二箇保については、明応九年(一五〇〇)一二月日付丹波国二箇益富保勘定状・文亀三年(一五〇三)四月日付丹波国二箇益富保勘定状・文亀四年二月一八日付室町幕府奉行人連署奉書などの関連文書があり、中世末まで石清水八幡宮領として推移していることがわかる。


二箇村
にかむら

[現在地名]川上町仁賀にか

大竹おおたけ川沿いの狭隘な谷間の低地を除き、村域の大部分は波浪状の高原にあり、西は大竹村、北は地頭じとう村、東は三沢みさわ村、南は後月しつき郡境。慶長五年(一六〇〇)と推察される二ヶ村検地帳(石井文書)によると高六一一石余、内訳は田四一町一反余・三七四石余、畑六〇町六反余・二一八貫余、屋敷二町四反余・一八貫余。この検地に関して文化一〇年(一八一三)平川ひらかわ(現備中町)の村明細帳(平川文書)に「慶長五庚子年毛利輝元卿御家来三輪加賀殿御検地」と記され、毛利検地の一環として作成されたものと推測できる。


二箇村
にかむら

[現在地名]大江町字二箇

由良川右岸河東街道に沿った村で、南は南有路みなみありじ村、北は桑飼上くわがいかみ(現舞鶴市)。東の谷奥に枝郷市原いちわら村がある。対岸は北有路村三河そうご村。

丹後国田数帳に「有道郷 五十二町六段百一歩内」として、「十七町六段三百五十三歩 二ヶ村上ノ大方殿」と記されるのが早い。

近世には慶長検地郷村帳に高六二六・六八石「二ケ村」とみえ、続けて「二ケ村之内市原村」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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