日本歴史地名大系 「二部村」の解説 二部村にぶむら 千葉県:安房郡富山町二部村[現在地名]富山町二部検儀谷原(けぎやはら)村の東に位置し、南部を岩井(いわい)川が西流する。弐部とも記した。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高五六五石余、うち田方四〇五石余。里見氏給人領。同一九年の里見氏改易後の領主の変遷は宮野谷(みやのやつ)村に同じ。正保郷帳によると田高四〇九石余・畑高一六二石余。万治二年(一六五九)の佐倉藩勝山領取箇帳(吉野家文書)では今高六一一石余、うち三九石余は明暦元年(一六五五)の地詰出高。 二部村にぶむら 島根県:簸川郡湖陵町二部村[現在地名]湖陵町二部神西(じんざい)湖の南にあり、西は板津(いたづ)村・大池(おいけ)村、東は三部(さんぶ)村。応仁元年(一四六七)一一月一〇日の古志為信安堵状(日御碕神社文書)に「神門郡稲頼庄安原二分内御崎御神田事」とみえ、日御崎社(日御碕神社)の神田が存在した。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高六八九石余、寛文四年(一六六四)の本田高六四五石余・新田高九石余。 二部村にぶむら 鳥取県:日野郡日南町二部村[現在地名]日南町福万来(ふくまき)南流する小原(こばら)川右岸に位置し、下流は葉侶(よころ)村。藩政期の野上(のがみ)庄二部宿(現溝口町)と区別するため葉侶二部村ともよばれた。拝領高は四八石余、本免は五ツ。嘉永元年(一八四八)の下札(日南町役場蔵)によれば朱高五三石余(うち畑高四石余)に対し、残高五三石余と開高七石余を加え高六〇石余、物成二九石余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六〇石余、竈数一二。「伯耆志」では林七町四反余、家数一二・人数五二。明治一〇年(一八七七)尾郷(おごう)村など五ヵ村と合併して福万来村となる。 二部村にぶむら 和歌山県:西牟婁郡串本町二部村[現在地名]串本町高富(たかとみ)二色(にしき)村の西に位置し、枯木(かれき)灘に面する農村。村域の多くは山地で占められ、海辺沿いに熊野街道大辺路が通り、道沿いに後子抛(ままこな)げという難所がある(紀南郷導記)。西は東雨(あずまめ)村、北は閏野(うるの)村・鶴川(つるがわ)村(現東牟婁郡古座川町)。集落は蛇行する小河川沿いに点在する。慶長検地高目録によると高二一四石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by