井上良斎(読み)イノウエ リョウサイ

20世紀日本人名事典 「井上良斎」の解説

井上 良斎(3代目)
イノウエ リョウサイ

大正・昭和期の陶芸家



生年
明治21(1888)年9月4日

没年
昭和46(1971)年2月6日

出生地
東京・浅草

本名
井上 良太郎

主な受賞名〔年〕
日本芸術院賞〔昭和35年〕

経歴
陶技を父の2代目井上良斎に学び、明治38年板谷波山に師事。大正3年横浜市高島町に窯を移した。昭和3年帝展に初入選、その後帝展、文展出品、4年には三越本店で個展を開くなど多くの個展を続けた。18年文展無鑑査。戦後は日展に所属、26年日展出品委嘱、28年から5回審査員を務めた。33年日展評議員、41年理事。同年日本芸術院会員。43年陶人会を主宰後進の指導に当たった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「井上良斎」の解説

井上良斎(2代)

没年:明治38.8.4(1905)
生年弘化2?(1845)
幕末明治期の陶工初代良斎の養子。初代は尾張(愛知県)瀬戸の出身で文政11(1828)年の生まれか。江戸四谷の松平摂津守家に仕え,のち独立して浅草橋場町に開窯。東玉園良斎と称し,瀬戸の技術をもって欧米への輸出品をつくり,東京磁器の有力者となった。 2代目は,尾張藩御用庭焼師川本治兵衛の子として瀬戸に生まれる。初代に請われてその養子となり,2代目を継ぐ。明治10(1877)年の第1回内国勧業博覧会に出品して受賞,名声を確立した。白磁の釉下着彩法をきわめ,完全な技巧を駆使した多彩な東洋的意匠を完成させて,明治の陶芸界を代表する名工となった。

(矢部良明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「井上良斎」の解説

井上良斎(2代) いのうえ-りょうさい

1845-1905 明治時代の陶芸家。
弘化(こうか)2年生まれ。尾張(おわり)名古屋藩御用庭焼師2代川本治兵衛の子として生まれ,初代井上良斎の養子となる。明治10年第1回内国勧業博への出品作が受賞。のち東京から横浜にうつって作陶,明治期を代表する作家のひとりとなった。明治38年8月4日死去。61歳。

井上良斎(3代) いのうえ-りょうさい

1888-1971 大正-昭和時代の陶芸家。
明治21年9月4日生まれ。初代井上良斎の長男。大正3年東京から横浜に窯をうつし,3代良斎を襲名。昭和3年帝展に初入選。28年日展審査員。34年「丸文陶平皿」で芸術院賞。41年芸術院会員。昭和46年2月6日死去。82歳。東京出身。本名は良太郎。

井上良斎(初代) いのうえ-りょうさい

1828-? 幕末-明治時代の陶工。
文政11年生まれ。尾張(おわり)(愛知県)瀬戸の人。犬山の川本治兵衛の窯(かま)をへて,江戸の四谷,下谷で製陶。慶応2年島田惣兵衛とくみ,浅草橋場町に開窯して輸出陶器などを製作した。通称は良吉。別号に東玉園。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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