京泊浦
きようどまりうら
水引郷網津村、川内川河口部にあった浦浜。川中の船間島との間に長さ一五町、広さ二町余、深さ五尋の水路があり(鹿児島県地誌)、そこに数多くの船舶が出入りする川湊が発達した。「応永記」によれば、応永一八年(一四一一)奥州家島津久豊の軍が碇山城の総州家島津久世・忠親を攻めるため川内へ兵を進めた際、先年の萩嶺の陣の時のように京泊を焼払い、大船で朔日頃の高潮に乗じて川をさかのぼることなどが計画されている。永正八年(一五一一)頃と推定される一一月二日の島津忠治書状(入来院文書)および同日の忠治書状(調所家文書)によれば、当時
答院重貴が薩州家島津忠興から網津・京泊を与えられて知行しているとある。その後当地は東郷氏の領有に帰したらしく、永禄一二年(一五六九)冬東郷重尚が島津貴久に降り、当地を含む高城・水引などを島津氏に進上した。翌一三年一月京泊などは薩州家島津義虎に与えられた(「箕輪伊賀覚書」「長谷場越前自記」旧記雑録など)。天正三年(一五七五)上洛した島津中務大輔家久は、その帰途七月一九日樺島(現長崎県野母崎町)を出航して酉刻に京泊に着き、小船で高江へ渡っている(島津家久上京日記)。
慶長八年(一六〇三)京泊へ入津したカンボジア船は将軍へ御礼のため来航したものであることから、強引な売買などの非道が禁じられ、川内にいた唐人も同船の唐人と先を争って商取引を行うことが禁止された。
京泊浦
きようどまりうら
[現在地名]肥前町大字納所字京泊
仮屋湾の入口南岸の漁村。藩政期初頭から独立した浦だが、土地は納所村に属する。正保絵図に「京泊村」とある。
船宮史料によれば、寛政五年(一七九三)に「船数拾八艘、内網船六艘、天当拾弐艘」とある。元禄一一年(一六九八)の入野組大庄屋諸岡又四郎の差出帳によると、この浦では、ゆば網・鮑網・鮑鉾・鯖釣・海鼠の漁を行い、浦住人四二九人中、漁従事は七六人であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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