日本の城がわかる事典 「今石動城」の解説 いまいするぎじょう【今石動城】 富山県小矢部(おやべ)市にあった山城(やまじろ)。城山(標高186m、白馬山とも)の山頂の本郭を中心に、そこから延びる6つの尾根に郭を配した城郭だった。1585年(天正13)、加賀の前田利家が越中国の攻略拠点として築城し、利家末弟の前田秀継を入城させた。城が建てられた場所には、能登・越中国境の石動山(せきどうさん)の山頂にあった伊須流岐比古(いするぎひこ)神社から勧請した伊須流伎比古神社があったという。今石動城の名前は、この神社の名前に因んだものといわれる。また、利家が1582年(天正10)に石動山天平寺を攻め、衆徒を撫で斬りにして石動山を焼き尽くしたが、その後、天平寺の衆徒は本地仏の木造虚空蔵菩薩像を差し出して和睦を要請した。利家がこの城を築く際、この木造虚空蔵菩薩像を城の守護尊として愛宕神社に安置したことから、石動山から多くの衆徒が集まり今石動と呼ばれるようになったという話もある。この木造虚空蔵菩薩像は現在、小矢部市内の聖泉寺に安置され、小矢部市の指定文化財になっている。今石動城を築城した1585年(天正13)5月、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や利家と対立していた越中の佐々成政配下の神保氏張、佐々平左衛門、主前野勝長らが攻め寄せたが前田勢により撃退された。今石動合戦とよばれる。その後8月には北国征伐のため自ら軍を率いてやってきた秀吉が滞在し、成政は降伏して越中が平定された。今石動城は、木舟城(高岡市)4万石を拝領した前田秀継の属城となり、秀継の子の利秀が城代として入城した。しかし、同年11月に起こった天正大地震で木舟城が倒壊して秀継夫妻が圧死した。その家督を継いだ利秀は木舟城と城下の復旧を断念して、本拠を今石動城へと移すことを決め、城下の整備に乗り出した。しかし、利秀は1593年(文禄2)に26歳で急逝し、翌1594年(文禄3)、今石動城は廃城となったとも、利秀の死去後、家老の篠島織部清了が城代として入城したが、1638年(寛永15)に廃城処分になったともいわれる。その後、城下は加賀藩によって統治され、明治維新を迎えた。現在、城跡は4000本の桜の名所として知られる城山公園として整備されている。園内には曲輪(くるわ)、土塁、空堀、堀切、切岸、大手道などの遺構が残っているが、城址としての景観は失われてしまった。なお、今石動城の本丸跡は私有地になっている。JR北陸本線石動駅から徒歩約15分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報