仏塔(読み)ぶっとう

精選版 日本国語大辞典 「仏塔」の意味・読み・例文・類語

ぶっ‐とう ‥タフ【仏塔】

〘名〙 仏の遺骨を安置して建造された塔。当初インドでは土饅頭であったが、各地に伝播されていくにつれて、三重塔五重塔多宝塔などの形式が生まれた。
性霊集‐八(1079)勧進奉造仏塔知識書「福徳以仏塔、造仏像要」 〔大法炬陀羅尼経‐三〕 〔南史‐扶南国伝〕

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デジタル大辞泉 「仏塔」の意味・読み・例文・類語

ぶっ‐とう〔‐タフ〕【仏塔】

仏の遺骨を安置した塔。→

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「仏塔」の意味・わかりやすい解説

仏塔
ぶっとう

仏教建築における塔。塔の名は、ストゥーパを音訳した卒塔婆(そとば)・塔婆(とうば)を略したもの。ストゥーパは釈迦(しゃか)の墓所を意味し、インドでは紀元前3世紀までさかのぼる。釈迦入滅のとき、その遺徳をしのんで仏舎利などを10か所に分骨したといわれ、当時の支配者アショカ王はそれを集めて再分配し、各地にストゥーパを建設したと伝えられている。

 ストゥーパの最古の遺例に1世紀初期ごろのサーンチーの第1ストゥーパがある。現在では表面が石造で、内部に約半分の大きさでれんが造のアショカ王時代のストゥーパを蔵しているが、表面の石で被覆したストゥーパは1世紀に増改築したものとみられる。ストゥーパは墳墓の形を示し、下部に円筒状の低い台基(だいき)があり、その上に半球状の墳丘をかたどる伏鉢(ふくばち)がつく。伏鉢の頂上に箱形の平頭(へいとう)を置き、上に傘竿(さんかん)を立て傘蓋(さんがい)を受ける。

 仏教の初期にはストゥーパが礼拝(らいはい)の対象で、周囲に柵(さく)を回し、門(トラーナ)を開く。またストゥーパを小型化してチャイティヤ(制底、制多などと書く)とし、堂内や石窟(せっくつ)内に納めてこれを釈迦の廟所(びょうしょ)として礼拝した。やがてストゥーパやチャイティヤの台基が多層化し、下方にさらに方形の基壇がつくられて高くなり、台基や基壇に浮彫り彫刻が施されて装飾化し、それが高層化されて塔身を形成した。

[工藤圭章]

中国の仏塔

仏教伝来の時期は明確でないが、伝来当初は釈迦の祠(ほこら)として浮屠祠(ふとし)と名づけられた。浮屠とはブッダ(仏陀)の音訳で、この名は1世紀中ごろの後漢(ごかん)の明帝の時代にみえる。しかし、その概観がわかるのは2世紀末の献帝のころ徐州(じょしゅう/シュイチョウ)につくられた浮屠祠で、『三国志』によれば、中央に相輪をのせた重楼があり、その周囲を回廊が巡り、重楼の初重には金色に輝く仏像が祀(まつ)られていたという。高層化された台基が楼閣として塔身をつくり、平頭や傘竿・傘蓋が相輪として装飾化したもので、この形はストゥーパの中国的表現と解釈できる。しかし、外見的にストゥーパを倣いながらも初重に仏像を祀ることから、建物の性格としては祠堂であり、このような重楼が浮屠または浮図とよばれるようになった。

 仏教の伝来当初には仏像を祀る祠堂が塔婆形式をとったが、4、5世紀になって仏舎利信仰が深まるにつれ、浮図に仏舎利が祀られ始めた。その結果、浮図は実質的に塔婆の性格をもち、祠堂としての仏堂が別に建てられるようになった。北魏(ほくぎ)の大祖道武帝が398年(天興1)に首都の平城(大同(だいどう/タートン))に建てた伽藍(がらん)は、五級浮図(五重塔)と耆闍崛山(ぎしゃくっせん)や須弥山(しゅみせん)を祀る仏堂があり、さらに講堂、禅堂、僧房などを完備して寺院の先駆けとなった。

[工藤圭章]

朝鮮の仏塔

朝鮮では仏教伝来の4世紀後半から木造塔が建てられており、高句麗(こうくり)では清岩里廃寺(平壌(ピョンヤン)市東方)や上五里廃寺(平安南道(へいあんなんどう/ピョンアンナムド))の八角塔跡、百済(くだら)では扶余(ふよ/プヨ)軍守里廃寺や益山帝釈寺の塔跡、新羅(しらぎ)では慶州(けいしゅう/キョンジュ)皇竜寺の九重塔跡が知られる。朝鮮では石塔が主で、益山弥勒寺(みろくじ)や扶余定林寺の石塔は木造塔の形式をもつ7世紀の遺例であり、645年(善徳女王14)竣工(しゅんこう)の新羅の慶州芬皇寺(ふんこうじ)石塔は規模の大きさでよく知られる。ほかに感恩寺の東西両塔、慶州仏国寺多宝塔、浄恵寺十三重塔、華厳寺四獅子(ししし)三重塔などみるべきものが多い。

[工藤圭章]

日本の仏塔

6世紀中ごろの欽明(きんめい)天皇の時代、仏教伝来の当初は仏像と経典がもたらされただけで、塔も仏堂も建てられなかった。585年(敏達天皇14)に蘇我馬子(そがのうまこ)が大野丘(おおののおか)の北に仏舎利を祀る塔を建てたとされるが、これは排仏派によってただちに伐(き)り倒されたといわれ、おそらく重層の建物というより心柱(刹柱(さっちゅう))だけのものと解される。日本の本格的寺院建築は、百済から工人が来日して造営した飛鳥寺(あすかでら)に始まるが、塔は593年(推古天皇1)に着工された。発掘された基壇の規模から、五重塔であったと推定されている。ほかに舒明(じょめい)天皇建立の百済大寺には九重塔があったと伝えられ、この後身の大官大寺にも文武(もんむ)天皇により九重塔が建てられており、日本でも飛鳥時代にすでに高塔が建てられていたことがわかる。奈良時代には大安寺東大寺をはじめ諸国の国分寺七重塔が建設され、西大寺では八角七重塔の建設が計画された。

 日本の仏塔の変遷をみると、大きな変化は心柱と平面に現れる。飛鳥時代の塔では心柱が掘立て柱として地中から立てられ、心礎は地中にあって、その中に舎利が納められていた。7世紀末に至ると心礎は基壇上面に据えられるようになり、心柱も基壇上から立てられ、奈良時代以降は心柱が掘立て柱である例はない。やがて平安時代後半になると、心柱は初重まで通らず、初重の天井上から立てられるようになった。現存する例では、兵庫県一乗寺三重塔(1171)、京都府浄瑠璃寺(じょうるりじ)三重塔(1178ころ)、京都府海住山寺(かいじゅうせんじ)五重塔(1214)などがあるが、浄瑠璃寺の塔は心柱、四天柱とも初重には立たない。心柱が初重平面から除かれると、ここに仏像が祀られるようになり、塔が仏堂化する。また中世には四天柱の前2本が省略され、仏像の後ろに来迎柱(らいごうばしら)が立ち、来迎壁を設ける形式も出現した。

 三重塔、五重塔に加え、平安時代には多宝塔が建てられ始めた。唐から帰った最澄は818年(弘仁9)に国土安鎮のため法華経(ほけきょう)を納める宝塔を日本の六所に建てることを計画(六所宝塔願文)したが、これは一級宝塔といわれるもので、一重の宝塔であったと推定される。最澄の遺志を継いだ円仁(えんにん)が853年(仁寿3)に造営した法華惣持院(ほっけそうじいん)の中心は、胎蔵界の五仏と法華経を納めた多宝塔であった。一方、空海は819年に比叡山(ひえいざん)の根本大塔の建設を発願している。また京都神護寺(じんごじ)では、850年(嘉祥3)に一重宝塔のある宝塔院を建設した。多宝塔は宝塔を塔身として周囲に裳階(もこし)を回した二重塔であり、大塔とは多宝塔の内に塔身部の柱を立てた形式をいうが、現存する多宝塔では1194年(建久5)の滋賀県石山寺多宝塔がもっとも古い。また大塔では、室町末期建立の和歌山県根来寺(ねごろじ)大塔が著名である。

 平安時代には石塔の建立も盛んで、群馬県桐生(きりゅう)市の石造三重塔には「永く安楽を得て彼岸に登らしめん」の願文とともに造立年次の延暦(えんりゃく)20年(801)の年紀があり、岩手県中尊寺釈尊院の五輪塔(空輪・風輪・火輪・水輪・地輪からなる)に記された仁安(にんあん)4年(1169)の年紀とともに、在銘石塔として名高い。ほかに石造仏塔としては、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を安置するための宝篋印塔(相輪・笠石(かさいし)・塔身・台石・基礎からなる)があり、これは五輪塔と同じく墓標や供養塔として利用された。奈良県吉野山出土の金銅塔には弘安(こうあん)10年(1287)の銘があり、宝篋印塔の銘としてはもっとも古い。なお、石塔では大分県の国東(くにさき)塔が特異な形式で知られるほか、現存最古のものとして、百済からの亡命移民の建立と考えられる滋賀県石塔寺(いしとうじ)の三重塔がある。また、中国では塼塔(せんとう)か石塔の八角塔の遺例が多いが、日本の八角塔としては、南北朝を下らない時期につくられたと考えられる長野県安楽寺の八角三重塔がある。この塔は初重に裳階がつくので四重塔にみえ、禅宗様の手法になる遺構としても貴重である。

 仏塔はもともと釈迦の廟所としての性格をもつため、1基だけ建てるのが一般的であったが、朝鮮半島では統一新羅時代の679年(文武王19)創建の四天王寺、682年(神文王2)竣工の感恩寺、684年(神文王4)の望徳寺などで相次いで双塔配置の伽藍が建てられた。日本でも藤原京における薬師寺を初例として、奈良時代には薬師寺、大安寺、東大寺、西大寺、法華寺、秋篠寺(あきしのでら)など、平城京内の寺院に双塔配置の伽藍が続出した。奈良県當麻寺(たいまでら)に残る双塔は、1基は奈良時代、1基は平安時代初期の三重塔だが、往時の双塔のたたずまいをいまに伝えている。

[工藤圭章]

『石田茂作編『日本の美術77 塔――塔婆・スツーパ』(1972・至文堂)』『秋山正美著『仏塔をたずねて――由来、みかた、起源』(1973・文進堂)』


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山川 世界史小辞典 改訂新版 「仏塔」の解説

仏塔(ぶっとう)
stūpa/caitya

サンスクリット語ストゥーパから卒都婆(そとば),塔婆(とうば),塔と漢字音訳される。ブッダの遺骨や遺品を納めた土,瓦,石,木などでつくった重層の塚。釈尊(しゃくそん)が入滅したのち,その遺骨(仏舎利(ぶっしゃり))は釈尊ゆかりの人々によって分けられ,10個の仏塔がつくられたといわれる。その後にアショーカ王がこれらの仏舎利を取り出し,各地に8万4000の仏塔をつくったと伝えられ,サーンチーに現存する仏塔はその一つと考えられる。仏舎利を納めないものをチャイティヤ(制多(せいた),支提,霊廟)と呼んで,ストゥーパと区別することもある。日本において多くつくられている三重塔や五重塔,五輪塔は,仏塔の原型を部分的に変形した姿のものであり,墓地に建てられる板塔婆も五輪塔を簡略化したものといえる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「仏塔」の意味・わかりやすい解説

仏塔
ぶっとう

仏教的な塔の総称。本来は釈尊の遺骨 (舎利) を安置する場所で,原初形態はインドのストゥーパの覆鉢 (ふくはつ) 形と考えられる。仏教の伝播,発展に伴い,各地で各種の形態が生じたが,日本での造塔の初めは,敏達 14 (585) 年に蘇我馬子が建てた大野丘の塔。その後,多種多様の塔が営まれ,おもなものに重層塔,宝塔,多宝塔,宝篋印 (ほうきょういん) 塔,相輪塔,笠塔婆,瓶塔,五輪塔,宝珠塔,無縫塔 (卵塔) ,碑伝 (ひで) ,板碑がある。

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世界大百科事典(旧版)内の仏塔の言及

【インド美術】より

…古代初期のはじめは都市遺構を除けば見るべき遺品に乏しく,石彫はマウリヤ朝治下の前3世紀に始まった。シュンガ朝,カーンバ朝,初期サータバーハナ朝と続く時代は,仏教徒が造形活動を主導し,仏塔(ストゥーパ)の造営と浮彫によるそれの荘厳が盛行し,西インドでは石窟寺院も開かれた。いかなる場合にも仏陀の姿を表現しないのがこの時期の特色である。…

【寺院】より

…釈迦の入滅に際し,その遺骨(仏舎利)をまつるためにストゥーパ(塔)が各地に造られたが,やがてそこが,仏陀を供養し,説法を聴聞する場として,在家信者たちの信仰の中心となった。仏塔はのちに僧院内にも設けられるようになった。とくに,建物の内部に小型の仏塔を安置するものはチャイティヤ(制多,支提,塔廟)とよばれる。…

【塔】より

…なお経幢(きようどう)は,八角形柱身に陀羅尼経を刻む石柱で,本来,塔とは異質の類型に属し,唐代後期以降に現れたものである。【田中 淡】
【日本】
 日本では西洋建築がはいるまで,塔は仏塔(塔婆)に限られていた。西洋建築の輸入以来,洋風の建物では,建物の中心などに塔状の部分,たとえば時計塔などを設けるものも多く造られたが,近代建築の興隆以来,機能的な見地から装飾的な塔は好まれず,また市街地では土地の利用上,制限いっぱいの軒高を取るため,塔を設けることは少なくなった。…

【パゴダ】より

…ヨーロッパ人が東洋の仏塔などの高い塔状の宗教建造物をみて,それを指して呼んだ語。原語は明らかでない。…

【浮図】より

…浮屠,仏図とも書く。中国で仏教伝来から南北朝時代にかけて,仏陀または仏塔を呼ぶのに用いた言葉。サンスクリットのブッダbuddhaの音写,あるいはストゥーパstūpaの誤った音写とされる。…

※「仏塔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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