改訂新版 世界大百科事典 「アショーカ」の意味・わかりやすい解説
アショーカ
Aśoka
古代インド,マウリヤ朝第3代の王。在位,前268年ころ-前232年ころ。生没年不詳。パーリ語仏典ではアソーカAsokaとし,漢訳仏典では阿育と音写され,無憂と意訳される。祖父は王朝の創始者チャンドラグプタ,父はビンドゥサーラ。青年時代に属州の太守として力を蓄え,父王の死後に兄弟と争って王位を継承した。王の碑文の語るところによれば,統治のはじめには祖父以来の領土拡張政策を推進し,在位第8年にインド半島北東部のカリンガ国を征服したという。この時点で南インドの一部を除く亜大陸全域の統一が完成した。しかし,この戦争はまた数十万人の犠牲者を出すという悲惨なものであった。王はこれを深く後悔して,武力征服政策を放棄し,〈ダルマ(法)〉に基づく政治を行うことを決意した。そしてダルマの理想を詔勅として発布し,官吏や民衆に知らしめるためそれを領内各地の磨崖や石柱に刻ませた。これがアショーカ王法勅として知られるものである。その後,王はダルマの宣布のために自ら領内を巡行するとともに,もっぱらダルマの普及にあたる特別の官吏(法大官dharmamahāmātra)を任命し,さらに使節を遠く西方のギリシア人世界や南方のスリランカにまで送った。またダルマの政治の一環として道路の整備,人畜のための病院の建設,井戸・休息所の設置など数々の社会事業を実施した。
アショーカ王のダルマの基本は万人が守るべき社会道徳であり,そこでは不殺生,父母に対する従順,友人・知人・親族に対する敬愛,バラモン・沙門・老人・師などに対する尊敬,奴隷・貧者に対する思いやり,他人の立場の尊重,自己反省などの徳目の実践が推奨されている。王のこのダルマは仏教の思想を主たる背景として生み出されたものであるが,仏法(ブッダの教法)そのものではなく,国家統治のための理念である。ダルマの政治は,民族的・地理的・文化的にきわめて複雑な要素から成る広大な帝国の基盤を安定させ,帝国の統一を維持してゆくことを意図したものであった。アショーカ王はカリンガ戦争前後に仏教に帰依し,その後しだいに信仰を深めた。伝説によると,王は残酷な性格で,即位後しばらく暴政を行っていたが(暴虐阿育),仏教に入信してからは理想の君主となり(法阿育),仏教教団を厚く保護し,領内に8万4000の仏塔を建て,仏跡を訪れて供養し,経典の編集事業(第3回仏典結集)と辺境地への大伝道活動を援助したという。スリランカの史書によれば,このときの大伝道活動にさいし,アショーカ王の王子のマヒンダ比丘と王女のサンガミッター尼とが同島にはじめて仏教を伝えたという。アショーカ王は晩年に仏教教団への莫大な寄進を企てたため,それに反対する王子や大臣に幽閉され,苦悩のうちに死去したと伝えられている。この伝説にどの程度の史実が語られているのかはわからないが,王の死後マウリヤ帝国が分裂と衰退への道を歩んだこと,それに伴いダルマの政治が放棄されたことは確かである。
執筆者:山崎 元一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報