仲津郡(読み)なかつぐん

日本歴史地名大系 「仲津郡」の解説

仲津郡
なかつぐん

豊前国中央部に位置し、北は京都みやこ郡、西は田川郡、南は下毛しもげ郡、東は築城ついき郡に接し、北東部は周防灘に臨む。近世の郡域はおよそ現在の行橋市東部、京都郡豊津とよつ町・犀川さいがわ町に相当する。

〔古代〕

「豊後国風土記」によると、豊国直らの祖菟名手に豊国を治めさせたところ、豊前国仲津郡中臣なかとみ村に至った時に白鳥が餅や芋になる祥瑞が現れたのを朝廷に奏上し、天皇より国名と姓である豊国の名を与えられたという。「和名抄」諸本では文字の異同はなく、訓を欠くが、「延喜式」民部上(九条家本)は「ナカツ」と訓ずる。郡名の初見は大宝二年(七〇二)の豊前国仲津郡丁里戸籍(正倉院文書/大日本古文書(編年)一)とされる。「和名抄」の郷は呰見あざみ蒭野くさの城井きい狭度さわたり高屋たかや・中臣・仲津・高家たかやの八郷。豊前国府の所在地は同書に「国府、在京都郡」と記されるが、国分寺は仲津郡域にあたる現豊津町国分こくぶにあり、近年発掘調査により国府と推定される遺跡が近くの惣社そうしやで確認されており、同遺跡では「急急如律令」と記された呪符木簡(木簡研究八)も発見されている。前掲仲津郡丁里戸籍では秦部と勝姓が四八〇人のうち四〇〇人と多い。このうち丁勝は仲津郡丁里、狭度勝は当郡狭度郷、高屋勝は当郡高屋郷、阿射弥勝は当郡呰身郷の有力者であろう。

天平一二年(七四〇)八月の藤原広嗣の乱に際し、追討軍側に兵八〇人とともに帰順した仲津郡擬少領無位膳東人がいた(「続日本紀」同年九月二五日条)。大宝二年の豊前国戸籍(正倉院文書/大日本古文書(編年)一)によると、上毛かみつみけ郡・仲津郡に膳大伴部・膳臣などの氏姓をもつ人物がおり、郡は違うが「宮子郡」(京都郡)少領膳臣広国の父は私出挙を行っており(日本霊異記)、膳氏は当郡を含む京都郡から上毛郡にまで及ぶ豪族だったのではないか。七世紀末に建立された上坂かみさか廃寺(現豊津町)は主要堂塔を備えた伽藍寺院であったが、その瓦には百済系の瓦が使用されていることから渡来人の氏寺とみる見解もある。西海道の調庸物はすべて大宰府に納められ、その一部が京進されていたが「豊前国仲津郡調短綿壱百屯 四両 天平三年」と記された木簡(平城宮木簡一)が平城宮跡から出土している。大宰府は米や馬の管外への持出しを禁じ、管外へは府の過所と門司もじ(現北九州市門司区)での勘過を受けることなしには通行できないなど厳しい統制をしいていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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