伊地知正治(読み)イジチ マサハル

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「伊地知正治」の解説

伊地知 正治
イジチ マサハル


肩書
宮中顧問官,修史館総裁

別名
幼名=季靖 通称=龍駒 龍右衛門 号=一柳

生年月日
文政11年6月1日(1828年)

出生地
薩摩国鹿児島城下千石馬場(鹿児島県鹿児島市)

経歴
合伝流兵学の奥儀を極め、西郷従道、三島通庸らを育てる。文久2年薩摩藩軍奉行、慶応4年東山道先鋒総督府参謀となり会津戦争功績をあげる。明治3年鹿児島藩大参事。4年新政府に入り、7年左院議長。8年修史館総裁となり官府修士事業を推進する。12年宮内省御用係となり、17年伯爵を授けられる。19年には宮中顧問官に任ぜられた。

没年月日
明治19年5月23日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「伊地知正治」の解説

伊地知正治

没年:明治19.5.23(1886)
生年:文政11.6.1(1828.7.12)
幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治政府の官僚。父は季平。藩校造士館教師。安政5(1858)年京にあって有馬新七,西郷隆盛らと井伊政権打倒の計画を進め帰国。翌6年11月,薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加。万延1(1860)年軍賦役,文久2(1862)年軍役奉行として島津久光の率兵上洛に随行薩英戦争に参軍。戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀,次いで大総督府参謀補助として板垣退助と共に会津を攻略。明治3(1870)年侍講,以来,薩摩藩権大参事,左院大議官兼教部省御用掛,左院副議長,参議,修史官総裁,宮中顧問官を歴任

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊地知正治」の意味・わかりやすい解説

伊地知正治
いじちまさはる
(1828―1886)

明治前期の官僚。文政(ぶんせい)11年6月1日薩摩(さつま)藩士の家に生まれる。藩校造士館教授、軍役奉行などを経て、1868年(明治1)の戊辰(ぼしん)戦争で東山道先鋒(せんぽう)総督参謀として活躍、永世禄(えいせいろく)1000石を賜った。1871年政府に入り左院議官。1872年同副議長。1874年同議長となり参議兼任。1875年一等侍講、ついで修史館副総裁。1877年同総裁。1879年宮内省御用掛。1884年伯爵。1886年宮中顧問官となり、同年(明治19)5月23日死去。

[毛利敏彦]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊地知正治」の意味・わかりやすい解説

伊地知正治
いじちまさはる

[生]文政11 (1828).6.1. 薩摩
[没]1886.5.23. 東京
幕末の薩摩藩士。戊辰戦争のとき東山道先鋒総督参謀となり,維新後は左院副議長,修史館(→修史局)総裁,宮内省御用掛を経て,1886年宮中顧問官となった。1884年伯爵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊地知正治」の解説

伊地知正治 いじち-しょうじ

1828-1886 幕末-明治時代の武士,官僚。
文政11年6月27日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。軍役奉行をへて,戊辰(ぼしん)戦争で東山道先鋒総督参謀となる。新政府で明治7年左院議長・参議,のち一等侍講,修史館総裁などを歴任し,17年伯爵,19年宮中顧問官となる。明治19年5月23日死去。59歳。通称は竜右衛門。名は「まさはる」ともよむ。

伊地知正治 いじち-まさはる

いじち-しょうじ

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