伊藤伝七(読み)いとう・でんしち

朝日日本歴史人物事典 「伊藤伝七」の解説

伊藤伝七(10代)

没年:大正13.8.12(1924)
生年嘉永5(1852)
明治大正期の企業家。伊勢国三重郡室山村(四日市市)の酒造家に生まれる。母は進士みす。幼名清太郎,元服して伝一郎。父の死後伝七(10代)を襲名した。父の9代伝七と5代伊藤小左衛門とは従兄弟であった。伝七(10代)は,幼時から俊英誉れが高く20歳で副戸長に就任したあと,伊藤小左衛門から紡績業を勧められ,明治10(1877)年26歳のとき官営堺紡績所に見習いとして入り,紡績技術を習得した。13年政府が殖産興業一環として実施した輸入紡績機械の払い下げを受け,水力を動力とする三重紡績所を三重県川島村(四日市市)に創設した。しかし技術と動力の不足から経営困難に陥っていたところ,三重県令の紹介で渋沢栄一知遇を受け,資金と技術者の斡旋を得,19年四日市で近代的技術と株式会社組織の三重紡績会社を設立。同社は日清戦争中の旺盛な需要に恵まれ利益を蓄積し,30年代には三重県と愛知県下の紡績会社を次々と合併し日本屈指の紡績会社となった。大正3(1914)年三重紡績を渋沢栄一と関係の深かった大阪紡績と合併させて東洋紡績を設立し,5年から9年まで社長を務めた。その傍ら,明治大正期の四日市の企業勃興に際し,多く新設企業に投資し,また四日市商工会議所副会頭,貴族院議員を歴任。人間関係と時流の双方に恵まれた刻苦勉励の人であった。<参考文献>絹川太一編『伊藤伝七翁』

(桜谷勝美)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「伊藤伝七」の解説

伊藤 伝七(10代目)
イトウ デンシチ

明治・大正期の実業家 東洋紡績社長。



生年
嘉永5年6月24日(1852年)

没年
大正13(1924)年8月12日

出生地
伊勢国三重郡宝山村(三重県四日市市)

別名
幼名=清太郎,前名=伝一郎

経歴
酒造家に生まれ、父の死後10代伝七を襲名。綿糸業を志し、明治10年堺勧農所の職工となり、14年郷里で綿糸紡績業(後の三重紡績)を開いた。その後渋沢栄一の援助で株式組織とし、20年三重紡績支配人、次いで取締役。名古屋、津に分工場を設立、38年関西紡績と合併、39年津島紡績、大阪西成紡績を買収、40年さらに桑名、知多両紡績を合併、大正3年大阪紡績を合併して東洋紡績と改称、副社長、5〜9年社長を務めた。また四日市市商工会議所副会頭なども務め、四日市の企業勃興に尽力した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊藤伝七」の解説

伊藤伝七(10代) いとう-でんしち

1852-1924 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)5年6月24日生まれ。9代伊藤伝七の長男。堺紡績所で研修。明治13年父らとともに郷里三重県に三重紡績所をおこし,渋沢栄一の支援をえて業務を拡張。大正3年大阪紡績と合併して東洋紡績(現東洋紡)を設立し,副社長,のち社長。貴族院議員。大正13年8月12日死去。73歳。前名は伝一郎。

伊藤伝七(9代) いとう-でんしち

1828-1883 幕末-明治時代の実業家。
文政11年10月25日生まれ。家業の酒造業をつぐ。明治13年長男伝一郎(10代伝七)らと三重県最初の機械紡績工場である三重紡績所(現東洋紡)を設立した。明治16年9月28日死去。56歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。名は知則(とものり)。前名は伝之右衛門。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「伊藤伝七」の解説

伊藤 伝七(10代目) (いとう でんしち)

生年月日:1852年6月24日
明治時代;大正時代の実業家。東洋紡績社長
1924年没

伊藤伝七(9代目) (いとうでんしち)

生年月日:1828年10月25日
江戸時代後期;末期;明治時代の実業家
1883年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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