伊賀光季(読み)いがみつすえ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊賀光季」の意味・わかりやすい解説

伊賀光季
いがみつすえ
(?―1221)

鎌倉時代前期の武士。鎌倉幕府宿老の伊賀守(いがのかみ)藤原朝光(ともみつ)の長子、母は幕府吏僚二階堂行政の女(むすめ)。幕府執権北条義時の後室伊賀方の実兄。義時の義兄として幕府政治で重きをなした。官途は兵衛尉(ひょうえのじょう)・左衛門尉、検非違使(けびいし)、位階は従五位下(じゅごいのげ)。1212年(建暦2)9月、常陸国(ひたちのくに)那珂西郡(なかさいぐん)内の地頭職(じとうしき)を安堵された。1219年(承久1)2月に幕府吏僚大江親広とともに京都守護に任ぜられ、上洛して洛中警固や畿内近国の成敗、朝幕間の連絡にあたった。同閏2月には大番武士の闘争を鎮撫(ちんぶ)したり、同3月には近江の謀反人を捕縛した。7月後鳥羽上皇の命により、源頼政孫で大内守護の源頼茂を討った。1221年の承久の乱に際して後鳥羽上皇召喚に応ぜず、このため上皇方の軍勢に攻められ、5月15日に高辻京極の宿所で子息寿王冠者光綱や根本被官らとともに自刃した。光季の遣わした飛脚により幕府は乱の第一報を得ることができた。光綱のほかに4人の子息がおり、遺領の常陸国塩籠荘(しおごのしょう)(現、茨城県東茨城郡城里町)などは子息四郎季村らに安堵された。

[渡辺智裕]

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改訂新版 世界大百科事典 「伊賀光季」の意味・わかりやすい解説

伊賀光季 (いがみつすえ)
生没年:?-1221(承久3)

鎌倉前期の武将官僚。伊賀守藤原朝光の長子。光宗,北条義時室の兄。早くから幕府に重用され,将軍源実朝横死(1219年1月)の翌月上洛し,大江親広とともに京都守護として活躍する。21年討幕の兵を挙げようとする後鳥羽上皇に招かれたが,光季は参加を拒否した。よって上皇軍の襲撃をうけ,寡兵をもって奮戦したが,ついに嫡子光綱とともに自刃した(承久の乱)。
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朝日日本歴史人物事典 「伊賀光季」の解説

伊賀光季

没年:承久3.5.15(1221.6.6)
生年:生年不詳
鎌倉前期の武将。伊賀太郎ともいう。朝光と二階堂行政の娘との長子。光宗は弟。兵衛尉,左衛門尉,検非違使などを歴任し,叙爵。父は鎌倉幕府宿老,妹が北条義時の後妻となっていたことから,重用される。承久1(1219)年源実朝の横死後,京都守護として上洛し,大江親広と共に京都警衛や朝幕間の連絡に当たった。同3年の承久の乱に際しては,西園寺公経の報告を得て,事を鎌倉に急報した。このとき後鳥羽上皇の召喚に応じなかったため,光季は上皇方の大内惟信らの襲撃を受け,高辻京極の宿所で子の光綱と共に自害した。

(佐々木文昭)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊賀光季」の解説

伊賀光季 いが-みつすえ

?-1221 鎌倉時代の武将。
伊賀朝光の長男。母は二階堂行政の娘。建保(けんぽ)7年大江親広(ちかひろ)とともに京都守護となる。承久(じょうきゅう)3年後鳥羽(ごとば)上皇の召集に応じず,挙兵の動きを幕府に急報したため,上皇軍に宿舎を襲撃され,同年5月15日子の光綱とともに自害した(承久の乱)。通称は太郎。

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