鎌倉幕府の職名。洛中守護,京都警固,六波羅とも称した。以前,源義経,大内惟義など,源頼朝の代官的存在として京都の警衛を担当した者はあったが,その段階ではまだ官職とはいえず,1185年(文治1)11月に入京した北条時政が初例。以後,一条能保(在任1186-94),中原親能(1186-88,1195-1208),平賀朝雅(1203-05),中原季時(1205-19),伊賀光季・大江親広(各1219-21)が就任。しかし彼らは,幕府の重要時期にしかるべき目的をもって派遣されるという臨時的性格が強く,その職務は一律でないが,おおむね洛中警固,西国成敗,朝幕間の連絡等に当たり,ときには両人で分掌する場合もあった。当初は頼朝の縁者(能保,親能),のちには京下官僚派(能保,季時,親広)と北条氏の縁者(朝雅,光季)が就任しており,幕府中枢権力の所在と密接に関係していた。承久の乱後は六波羅探題に発展,解消し,それまで脆弱だった裁判権や在京御家人への統率力も著しく強化された。
執筆者:杉橋 隆夫
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鎌倉時代前期の幕府の職名。京都にあって御家人(ごけにん)を統率し、洛中(らくちゅう)の警備、裁判などの政務を行い、朝廷との折衝、京・鎌倉間の連絡にあたったが、後の六波羅探題(ろくはらたんだい)に比して権限は弱かった。1185年(文治1)の北条時政(ほうじょうときまさ)が初代とされ、ついで一条能保(いちじょうよしやす)、中原親能(なかはらちかよし)が就任した。初期には源頼朝(よりとも)の縁者、側近があてられたが、時政が執権となった1203年(建仁3)以後は、平賀朝雅(ひらがともまさ)、伊賀光季(いがみつすえ)など北条氏の縁者が多く派遣され、しかも同時に2名が任ぜられるようになった。承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、六波羅探題が設置されて消滅した。
[小山靖憲]
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鎌倉前期の幕府の職名。京都にあって在京御家人を統率し,洛中の警備・裁判などを扱うとともに,朝幕間の連絡にもあたった。六波羅探題の前身だが,権限は六波羅探題に比べ弱体であった。初代は1185年(文治元)就任の北条時政で,源頼朝の時代には時政や一条能保など頼朝の縁者,中原親能のような頼朝の側近が任じられたが,のち平賀朝雅・伊賀光季など北条氏の縁者が任命されるようになった。1221年(承久3)承久の乱がおこると,2人の京都守護のうち伊賀光季は京方武士の攻撃によって敗死,大江親広は京方となったため京都守護は事実上消滅,乱後に廃止された。
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[支配機構]
1185年(文治1)11月,源頼朝は北条時政を京都に送り,洛中の守護と近国の管轄にあたらせた。これ以降,承久の乱(1221)までは北条時政,平賀朝雅,伊賀光季が京都守護として山城国の支配にあたったが,鎌倉幕府の山城・京都への支配力は十分に浸透していなかった。そこで承久の乱後は,北条氏の一族が六波羅探題(ろくはらたんだい)として京都に派遣されることになった。…
※「京都守護」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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