平安中期~鎌倉前期,大内(大内裏中の内裏)警衛を管轄する職称。起源は明瞭でないが,《尊卑分脈》に源頼光を〈大内守護〉とするのが初例。以来頼光の子孫の世襲になったと思われ,平安末期源頼政の在職が確認される。ついで木曾義仲の在京中には,頼政の子頼兼が大内裏の守護にあたった。鎌倉幕府成立以後も頼兼の大内守護は継続されたが,1188年(文治4)頼兼は,自己の兵力のみでは任に耐えぬと幕府・朝廷に訴え,北陸の御家人が添えられた。さらに90年(建久1)には,安田義定が補佐することになり,これを禁裏守護番ともいった。北国御家人,義定とも幕府支配の弱点であり,この段階での大内守護は,幕府が管掌する内裏(里内裏)大番からは,相対的に自立していたと思われる。しかし1219年(承久1)7月,ときの大内守護頼茂(頼兼息)が誅殺され,大内も焼亡して以降,大内守護の職名は消失する。大内の荒廃と幕府による京都大番制の確立とが,この職務の復活を妨げたのであろう。
→京都大番役
執筆者:杉橋 隆夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安宮の内裏(大内)を警固する職。平安中期~鎌倉前期,多田源氏の頼光流が世襲した。源頼光の頃,はじめて衛府に代わって武士の棟梁が内裏を警固するようになったらしく,源頼政にも在職の徴証があり,1183年(寿永2)には子の頼兼が任命された。88年(文治4)頼兼は自力のみでは任に堪えないとして鎌倉幕府へ援助を請い,そのため御家人の一部が頼兼を補佐して警固することとなった。これを禁裏守護番ともいう。1219年(承久元)父頼兼から本職を継承した頼茂(よりもち)は,後鳥羽上皇の追討をうけ自殺。以後,本職は設置されず,平安宮内裏も27年(安貞元)廃絶した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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