伊部村(読み)いんべむら

日本歴史地名大系 「伊部村」の解説

伊部村
いんべむら

[現在地名]備前市伊部

山陽道に沿う村で、東は西片上にしかたかみ村、西は香登本かがともと村。古代、素焼の斎器製造に従事した忌部が住したことから村名が生じたとも伝える。

「備前記」に「此村古ヨリ伊部焼物トテ名物也。(中略)右之外品々焼物アリ諸国ヘ焼出ス」とあるように、伊部焼(備前焼)で知られた。中世・近世の窯跡が多数残る。現赤磐あかいわ山陽さんよう千光せんこう寺蔵の文安元年(一四四四)とされる古備前焼壺銘文によると、壺は同寺橋本坊の常什物として焼かれたもので、作者は「伊部村」釣井衛門太郎とある。なお正中元年(一三二四)七月七日の存疑香登庄地頭代免状(長法寺文書)には「香登庄内伊部村小幡□」とあって、当地が八条院領香登庄の東部に含まれていたことが推測される。天正一〇年(一五八二)三月、岡山着陣を前に羽柴秀吉は当地に禁制(黄薇古簡集)を下し、陣取および将士の出入を禁じた。


伊部村
いべむら

[現在地名]湖北町伊部

留目とどめ村の北東に位置し、南を川が流れる。集落内を北国脇往還が通り、江戸時代には宿として機能した。北に小谷おだに山を望み、古くは小谷・上小谷などとも称し、浅井氏の居城小谷城の城下に位置した。貞永元年(一二三二)のものと推定される石清水八幡宮文書目録(石清水文書)によれば、保元元年(一一五六)には当地周辺に山城石清水いわしみず八幡宮領の「小谷庄」が成立していたことが知られ、同年一二月には検校玄清から年貢弁済を命じられている。また正安元年(一二九九)と推定される九月二二日付長清申状(下郷共済会蔵)によれば、同庄の知行権は玄清の頃に別当を勤めた宝清家に代々継がれたことが知られる。天正一七年(一五八九)四月二一日の田中吉政下知状(南部文書)に「伊部町」とみえ、当時、問屋が置かれ宿的機能を果していたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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