日本歴史地名大系 「佐多村」の解説
佐多村
さたむら
平安時代後期から戦国期の村。
佐多氏は禰寝文書などの検討により頼貞―頼親―親助―頼清(親助の伯父)―頼高―親清(高清)―親高と続いたことがわかる。これに対し、親清と高清を別人として親助―親清―親高と続いたとする見解がある。天福二年(一二三四)頃には税所職をもつ建部親高が調所恒用と調所職・政所職をめぐって争っている(「調所恒用譜」旧記雑録)。建長五年(一二五三)一二月二八日の将軍宗尊親王家政所下文案(池端文書)によると、親高が所領未処分のまま死去したため、佐汰村内の田七段と薗一所は親高の五女(字地蔵)の知行とされている。同六年五月八日の建部親綱配分状(同文書)に五女分は佐汰村内の「竹原田二段六十歩、湊田内四段三百歩、小藤二外薗壱所」と記されており、親高の跡を惣領親綱が継承したとみられる。正嘉二年(一二五八)九月二一日の建部親綱和与状(禰寝文書)は、惣領親綱と庶子宗親が佐田村の所務について和与したものである。同和与状のなかに佐田村後家分と宗親の所領に課される公事等を大淀浦に掛けると記されており、その内訳は鞦三昧供・安居布・守護所御飯用途・守護所借屋造・守護所鎌倉長夫・節料布・大祓とされている。
佐多村をめぐる相論も多く、文永二年(一二六五)一〇月一二日の関東御教書写(禰寝文書)には佐汰村についての文書を御家人尼妙阿が押領したとある。同六年から同八年にかけての五通の関東御教書写(同文書)には佐多宗親の子息阿古丸(定親)が草井左衛門入道行念と、行念の死後はその子息・後家と、さらに宗親の舎弟倉次郎・女子地蔵と相論したことが記され、これらはいずれも佐多村についての訴訟とみられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報