佐田村(読み)さだむら

日本歴史地名大系 「佐田村」の解説

佐田村
さだむら

[現在地名]白山町佐田

雲出くもず川の支流大村おおむら川上流域の谷平野にある。奥佐田おくさだ中佐田なかさだ口佐田くちさだの三集落からなり、三方を山地で囲まれるが、北は谷杣たにぞま(現久居市)、南東になかノ村、南西は上野かみの村と接する。中世は小倭おやまと郷に属する。明応三年(一四九四)の小倭百姓衆起請文(成願寺文書)には成願じようがん寺に起請した佐田村衆として一五名の名がみられる。同起請文に常光寺界外として地蔵堂道善以下一〇名がみえ、中世にあった常光じようこう寺の住民であろう。「応仁別記」によれば、応仁元年(一四六七)八月二三日乱を避けた足利義視は、京を逃れて北畠教親の陣所へ赴き、北畠一族の先導で近江から伊賀を通り、同二九日には伊勢に入って、小倭庄の常光寺で国司北畠教具を招いたとある。


佐田村
さだむら

[現在地名]甘木市佐田

黒川くろかわ村の北、佐田川最上流域の山間部に位置する。上座じようざ郡に属し、北西は夜須やす江川えがわ村、北東は小石原こいしわら(現小石原村)、南東は赤谷あかだに(現杷木町)、西は下座郡矢野竹やのたけ村。村の中央部に鳥屋とや(塒山。六四五・一メートル)がそびえ、枝郷に仏谷ほとけだに村・田代たしろ村・やぶ(続風土記)がある。なお古代の上座かみつあさくら柞田くぬぎた(和名抄)を当地に比定する説もある。江戸時代を通じて福岡藩領。


佐田村
さたむら

[現在地名]明和町佐田

はらい川右岸にあり、北は前野まえの村、東は笹笛ささふえ川を越えて中大淀なかおいず村、南は馬之上うまのうえ村、西は中海なこみ村に接する。

神鳳鈔」に「佐田御薗七斗」とみえる。また「深田御薗」が記され、「五鈴遺響」に「属邑深田本邑ノ西ニアリ」とある。元亨二年(一三二二)七月付法常住院別当恵観訴状写(光明寺文書)によれば、法常住院別当恵観は佐田蔵人入道向西(俗名大中臣公益)が寺領麻続常吉戸田を佐田御園田に混じて押領し、沙汰用途・御年貢と称して百姓から所当物を責取ったとしている。


佐田村
さだむら

[現在地名]安心院町佐田

且尾かつお村の西、佐田川の流域にある。当村で山蔵やまぞう川・ぬめり川が佐田川に合流し、小盆地を形成、古くから交通の要地であった。南は広谷ひろたに村、東は山蔵村。なお佐田川の本流は当地より上流で矢津やづ川ともいう。弥勒寺御許山領の散在庄園佐田庄の遺称地で、地内には同庄地頭佐田氏の居城であった赤井あかい城跡・青山あおやま城跡や佐田庄総鎮守であった佐田神社などがある。近世の領主の変遷は古市ふるいち村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三八九石余、人数二四八、百姓二一(うち惣庄屋一・庄屋三)・名子二三・牢人一一・鍛冶一・番匠二、牛二四・馬二〇。


佐田村
さたむら

[現在地名]日高町佐田

伊府いぶ村の南東、三方みかた盆地の東部に位置する。古代には気多けた楽前ささのくま(和名抄)、中世には楽前庄に含まれたと推定され、集落北東の山上に楽々前ささのくま城跡がある。江戸時代の領主の変遷は久斗くと村西組に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高二一四石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも同高。安政五年(一八五八)の生糸生産高は二五把(五貫目)、元治元年(一八六四)は上作で四五把(「生糸出来高書上帳」河本家文書)


佐田村
さたむら

[現在地名]玉城町佐田

田丸たまる城下の東側にある。狭田とも書かれる。天保郷帳に「佐田村 古者佐田村三橋村二ケ村」、「五鈴遺響」に「属邑新田町・三ツ橋アリ。三ツ橋ハ本邑ノ北ニ居ス 湯田郷ニ属ス」とある。皇大神宮摂社の狭田国生さたくなり神社があり、「伊勢二所皇太神宮神名秘書」にも「坐湯田郷佐田村」とみえ、寒河社ともよばれているが寒川とは外城田ときだ川の旧名である。織田信雄による流路変更以前は外城田川は当社の近くを流れていたと思われる。「外宮神領目録」に「佐田御園二斗、菓子三籠、此外口入料三斗在之歟、口入人雅継神主云々」とある。


佐田村
さだむら

[現在地名]但東町佐田

栗尾くりお村の南に位置し、集落は出石川の両岸に発達。出石・福知山道が通る。近世の領主の変遷は水石みずし村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二三四石余。出石封内明細帳によると拝領高二〇七石余・改出高七三石余、これらの内訳は屋敷四石余・麻畑六石余・田方二三六石余・畑方三三石余。小物成として茶代米三石一斗余・山手米九斗余、刈畑役の小豆七升余・粟七斗余・蕎麦一石二斗余・稗二斗余、桑代の真綿三貫五七六匁余ほかを納め、家数三八・人数二〇〇。天保九年(一八三八)の牛数一〇(「巡見案内帳」岡田家文書)


佐田村
さだむら

[現在地名]高取町大字佐田

木辻きのつじから真弓まゆみ(現明日香村)に至る街道西方に立地。「万葉集」巻二には真弓丘の歌とともに草壁皇子の死を悼んで

<資料は省略されています>

などの歌があり、集落の南には草壁皇子の墓とされる真弓丘まゆみのおか陵がある。また「五代集歌枕」に「佐田岡」、「八雲御抄」に「さだのをか」が万葉地名としてあげられている。

文禄四年(一五九五)の検地の村高一八六・九五石。


佐田村
さたむら

[現在地名]美浜町佐田

北田きただ村の南に立地。東はせき峠を境に越前敦賀郡(現敦賀市)。西は織田おた湾に面する。「若狭国志」に「佐田旧名織田」とあり、当村を俗にオッタとよぶ。集落の西方に今市いまいちという小名がある。天文一二年(一五四三)七月九日付の田辺又四郎あて若州三方郡山東郷之内宗景名并所々買徳目録(田辺文書)に「佐田村百姓中」とある。天正一七年(一五八九)一一月三日付戸田勝直判物(同文書)によれば、豊臣秀吉の刀狩に際し、山に猪が多いため当村へ槍一〇本を許可している。


佐田村
さだむら

[現在地名]中村市佐田

川登かわのぼり九村の四万十しまんと川最下流にある悪瀬々あせじ村に続く村で、集落は四万十川左岸沿いに形成されている。天正一七年(一五八九)の幡多庄佐田之村地検帳によれば検地面積六四町九反余、屋敷数六八うち居屋敷三四。屋敷のうちには宗願寺が含まれる。佐田村は一条氏時代佐田氏の支配地であったが、同氏の居城は「佐田古城ホリヨリ南三方ノキシ共」「佐田城中本丸四方切キシ共」として検地されており、長宗我部氏の直分となっている。しかし別に「ト井ヤシキ」(一反余の上屋敷)があり、佐田源太良が居住しているので、佐田氏は村内に給地を与えられてもとの土居にそのまま住むことを許されているもののようである。


佐田村
さたむら

[現在地名]鹿島町佐田

鹿島台地南端にあり、東は谷津田を挟んで木滝きたき村。慶長七年(一六〇二)一〇月二六日の伊奈忠次等連署神領目録案(鹿島神宮文書)に「三百四拾参石六斗弐升 佐田村内ニテ渡」とあり、村の一部が鹿島神宮領になっていた。同一〇年八月二八日の里見梅丸寄進状(鹿島神宮文書)には「鹿嶋郡佐田村之内田地五拾石令寄附候」と記され、一時安房館山藩主里見忠義が当村を領有していた。のち旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高一千一〇〇石余で旗本間宮氏領五〇〇石、戸田氏領四八二石余、爪木氏領一一七石余。


佐田村
さだむら

[現在地名]大塔村佐田

日置ひき川の支流将軍しようぐん川に沿う山間集落で、北は古屋ふるや村、南は中野俣なかのまた村、東は谷野口たにのくち村、西は市鹿野いちかの(現日置川町)。「続風土記」に「佐田は狭田の義ならん」と記される。


佐田村
さだむら

[現在地名]古座川町佐田

大川おおかわ村の小名真砂まなごの北、古座川上流に位置する。慶長検地高目録によると村高二三三石余、小物成二・八一二石。三尾川組に属し、「続風土記」には家数四五、人数一八九とあり、七川しつかわ谷諸村の慶長(一五九六―一六一五)の検地は当村内の佐田庄さだのしよう谷から始められたという。


佐田村
さだむら

[現在地名]御所市大字佐田

金剛山地東麓の村で、西は井戸いど村。慶長郷帳では御所藩(桑山元晴)と備中国松山藩(元和元年以後は近江小室藩小堀政一)領の相給。御所藩領は寛永六年(一六二九)に廃藩のため幕府領、同一六年郡山藩(郭住、本多勝行)領、延宝七年(一六七九)幕府領。


佐田村
さだむら

[現在地名]北山村大字佐田

西にしノ川流域、上桑原かみくわばら村の上流に位置する。慶長郷帳には村名がみえず、村高九四五・一九七石の「北山村」のうちに含まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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