余田村(読み)よでんむら

日本歴史地名大系 「余田村」の解説

余田村
よでんむら

[現在地名]福崎町八千種やちくさ

しよう村の東に位置し、平田ひらた川の中流域に立地する。神東じんとう郡に属する。中世には蔭山かげやま庄に含まれた。明応六年(一四九七)の作成と推定される蔭山庄本所分公田田数注文(九条家文書、以下中世の記述では断りのない限り同文書)は、八千種以下の蔭山庄内七ヵ村を記すが、うち余田村は付けたりの扱いである。田数は二町五段。応永三年(一三九六)四月日の九条経教遺誡には無足田が八千草村とともに一音院(現京都市東山区)領としてみえる。無足田は収益がほとんど得られない地味の低い田を意味し、この無足田の地が余田村となったものと考えられる。永享一一年(一四三九)二月四日、幸夜叉(公遍)が一音院ならびに自在王院の院務職とともに、蔭山庄の八千種村・無足田などの寺領を相承している(九条満家安堵状案)

余田村
よたむら

[現在地名]柳井市大字余田

大平おおひら山の南西に位置し、西は塩田しおた(現熊毛郡大和町)大波野おおばの波野はの(現熊毛郡田布施町)、東は柳井・新庄しんじよう、南はたてはま(現熊毛郡平生町)の各村に接する。南北に細長い村で、北部は山地、南部に平地が広がる。吉川氏入国前は毛利氏の家老福原越後の知行地。石高一千七〇〇石であった。近世、岩国藩領柳井組に属し、柳井代官の支配下にあった。

村名は慶長五年(一六〇〇)検地帳に余田村とあり、寛永三年(一六二六)の熊野帳で余田、元禄一二年(一六九九)の郷帳には余田村とある。庄屋は長尾家の世襲で、庄屋ほか刀禰七名、年寄一名がいた。

余田村
よでんむら

[現在地名]市島町徳尾とくお上鴨阪かみかもさか下鴨阪しもかもさか

前山さきやま川の上流域にあった近世初期の村名。のち郷帳類に余田と肩書される鴨坂下かもさかしも・鴨坂上・徳尾の三村に分村する。天正一二年(一五八四)蘆田(赤井)時直は徳川家康の小牧・長久手への出陣に呼応し、久留井(現春日町黒井)より兵を撤し余田に拠った(五月一六日「本多忠勝書状」譜牒余録)。文禄年間(一五九二―九六)の検地帳に村名が載るという(「氷上郡村高辻帳」氷上郡志)

余田村
はぐりむら

[現在地名]武生市余田町

丹生山地の一支脈の東麓にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名と高一三七四・六七八石が記され、正保郷帳によると田方一千二四三石余・畠方一三〇石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となったが、宝暦九年(一七五九)高一三七四・六八四石のうち四七一・七一石が美濃国郡上藩領となった(福井県史)。伝えによれば、村民は相談のうえ、籤引きによって所属を決め、最後の一軒は両領を兼ねたという(吉野村史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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