借宿村
かりやどむら
[現在地名]足利市借宿町
渡良瀬川右岸に位置し、対岸は足利五ヶ村。東に浅間山があり、西は堀込村。古蹟足利城之絵図(鑁阿寺蔵)によると、渡良瀬川は当村と堀込村の間を南東流して南の八幡村に入る。村名の由来は、前九年・後三年の役の際、奥州へ下る源頼義・義家の軍勢が当地に逗留したことによるという。苅宿とも記す。観応二年(一三五一)九月二三日の関東公方足利基氏寄進状(鑁阿寺文書)に足利庄内「借宿郷」とみえ、佐々木近江守の妻が領していた同郷が、一切経会の供料所として鑁阿寺に寄進されている。応永八年(一四〇一)一二月二三日には、関東管領上杉朝宗の意向を受けて、同郷の道場定光寺(時宗寺院でのちに廃寺)に借宿弥次郎跡の所領田畠在家などが寄進されている(「関東公方足利満兼寄進状写」同文書)。
借宿村
かりやどむら
[現在地名]白河市借宿
田島村の北、阿武隈川右岸丘陵に位置し、村の広さは二町四方で、水田の中に集落がある。苅宿とも記される。当地には借宿廃寺があり、古代白河郡の中心であったとみられる。村名の由来について、「白河風土記」は口碑によるとして、上代星の帝(星ノ宮とも)なる貴人が当地に仮寓したことによると伝えている。天正年間(一五七三―九二)と推定される七月一一日の佐竹義重書状(上遠野文書)に「かり宿」とみえ、当地と本沼が義重によしみを通じるようになった上遠野常陸介に与えられている。東方に新知山があり、古来歌に詠まれた人不忘山ともよばれ、「夫木抄」に「陸奥のあぶくま河のあなたにぞ人わすれずの山はさがしき」の歌が載る。
借宿村
かりやどむら
[現在地名]軽井沢町長倉 借宿
近世、中山道追分宿と沓掛宿の中間にある間の宿。古代の官牧長倉牧の境域内にあり、中世には大井庄長倉郷。文明二年(一四七〇)法華堂源宗(大井氏)が平賀(現佐久市中込)の玉蔵坊に、大神宮並びに熊野社参詣の先達職を譲った文書に「かりやとの大郎二郎殿の志そん」(「源宗檀那職譲状」法華堂文書)とあるのが初見。永禄四年(一五六一)武田信玄が碓氷峠を越して松井田(現群馬県碓氷郡松井田町)に陣取った際「かり宿近辺へ打ち散じて放火の働」(片野文書)をしているので、中世既に集落をなしていたことを知る。
下仁田道(女街道または姫街道)への入口で、和美峠(現軽井沢町南軽井沢、群馬県甘楽郡下仁田町)を経て下仁田(現群馬県甘楽郡下仁田町)に通じ、鳥居原を経て入山峠(現軽井沢町境、群馬県碓氷郡松井田町)にも達する。
借宿村
かりやどむら
[現在地名]藤枝市仮宿
横内村の西に位置し、北東は朝比奈川を隔てて東海道岡部宿(現岡部町)。志太郡に属し、横内村南部で東海道から西に分れた脇往還沿いにあたる。中世には岡部郷の中心に位置したとされ、戦国期までの岡部宿も当地にあったとする説がある(「駿河志料」など)。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に村名がみえ、高七八八石余。
借宿村
かりやどむら
[現在地名]西尾市刈宿町
市の西南端に位置し、北は巨海村に隣し、東と南は北浜川をもって行用村、三ッ井村(現幡豆郡一色町)と境し、西は中根村に接する。「三河国二葉松」に「苅宿 磯」と記し、以前は海辺の村であった。刈宿古墳群がある。「三河志」に「刈宿と巨海村之間に有三塚。云大小塚。囲四十間余ある塚上有小祠樹木生茂りたり、大塚と云(中略)。外二つ小塚にして大塚近く畑中にあり。東の方を鎧塚と云。西の方をほうくはん塚と云、宝冠歟」とあり、また「寺津村誌」には、大塚は六孫王源経基の孫源満国の墳墓、宝冠塚は常福寺境内にあって、同人の宝物調度を、甲塚は武器を、経塚は経を納めた塚としている。
借宿村
かりやどむら
[現在地名]岩井市借宿
冨田村の西に所在。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「一 かりやと 五貫文 ミねんく 弐貫文 夫銭」とある。永禄一一年(一五六八)の足利義氏条書写(野田家文書)に「苅宿」がみえ、義氏の家臣の領地となっており、天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)にも「かり宿 清式部大夫、但相馬へ被下内」とみえる。
借宿村
かりやどむら
[現在地名]鉾田町借宿
巴川右岸の段丘上にあり、北西は青柳村。嘉吉元年(一四四一)四月、武田信久は結城合戦の功により、借宿を所領として与えられ、天正一九年(一五九一)武田氏滅亡まで代々相伝された(鉾田の文化)。江戸時代に府中(石岡)藩領と旗本領となり、正徳元年(一七一一)の借宿村御林改帳(二重作家文書)によれば、府中藩の御林は一一八町余、うち六五町余が「先御林」、五三町余が「先々より御林外之町歩」。また天保七年(一八三六)の借宿村御林書上書(武田家文書)によれば、御林のうち六五町余に槲、一九町余に松の植栽を実施している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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