もと‐むら【元村】
- 〘 名詞 〙 昔からある村。〔地方落穂集(1763)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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元村
もとむら
[現在地名]室戸市元
浮津村の西北に位置し、村域西端に行当岬がある。集落は海岸沿いに東から岩戸・落地(現上ノ内)・脇之浜(現脇地)・行道(当)・新浦(現新村)、北側の山中に西川・向江などがある。なお金剛頂寺領の西寺村を当村に含める場合もある。
金剛頂寺(西寺)の山下にあるため、古代・中世を通じてその領地とされ、天正一五年(一五八七)の長宗我部検地でも同寺領を記した西寺地検帳に含まれる。元村分は岩戸村が二五筆で一町八反余、「本之村」分が一七一筆で一二町五反余、ほとんどが下々田・下屋敷・サンハク(山畠)・切畑で、わずかにある上田や中田はほとんどが金剛頂寺大坊分や脇寺分、あるいは法要・神事の料田にあてられている。とくに村内の最良田としてまとまっている「モトタ」は一筆で一町三六代四歩あり薬師御仏供田、一筆七反七代の「イヲラタ本田」は院主分とある。
元村
もとむら
[現在地名]大牟田市吉野
尾尻村の北、甘木丘陵の東側にある。本村とも記される。貞和三年(一三四七)一〇月八日の相良聖円譲状写(山北相良文書/南北朝遺文(九州編)二)に「三池庄北郷内尾尻・山本村」がみえ、この「尾尻・山本村」を戦国期の史料にみえる「尾尻本村」にあてる説がある。「山本村」は建武元年(一三三四)七月二二日の相良聖円譲状写(豊西説話/南北朝遺文(九州編)一)に「三池庄北郷山本村」とみえており、同村内一二条三甲三二北里九反二丈、同三二坪四反二丈(号高木)、同四甲八坪内一反一丈が聖円から養子又千世丸へ譲られた。
元村
もとむら
[現在地名]安心院町元
福貴野村の東方、深見川支流寒水川右岸の山間部にある。当地の渓谷には現在多くの石橋が架かっている。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二一四石余、人数六三、百姓一三(うち庄屋一)・名子一、牛九・馬一。元禄豊前国高帳や天保郷帳に村名はみえないが、享保二年(一七一七)の中津藩郷村高帳などによると、この頃には畳石村の枝郷扱いで、同村に含まれて高付されていたのであろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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