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兪吉濬 ユ ギルチュン

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

兪吉濬 ユ-ギルチュン

1856-1914 朝鮮王朝の政治家。
哲宗7年9月25日生まれ。開化思想に傾倒し,明治14年(1881)最初の留学生のひとりとして来日,慶応義塾にまなぶ。16年アメリカに留学。金弘集(キム-ホンジプ)内閣の甲午改革(1894-95)に中心的役割をはたす。金内閣の崩壊後,日本に亡命し,明治40年帰国した。1914年9月30日死去。59歳。慶尚道出身。著作に「西遊見聞」。

兪吉濬 ゆ-きっしゅん

ユ-ギルチュン

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

兪吉濬

没年:大正3.9.30(1914)
生年:哲宗7.9.25(1856.10.23)
朝鮮李朝末期の開化派政治家。日本語読みは「ゆ・きっしゅん」。号は矩堂。朴珪寿に師事して開化思想に傾倒し,日本・アメリカに留学する。高宗22(1885)年に帰国するが,開化派の一味として幽閉される。この間,留学経験をもとに西洋事情を紹介した『西遊見聞』を著す。甲午改革(1894)では金弘集内閣の中心人物として,改革に尽力した。高宗のロシア公使館への脱出(1896)で金弘集内閣が崩壊するや日本に亡命し,隆煕1(1907)年に帰国後は在野で興士団,漢城府民会を通じて愛国啓蒙運動を展開した。日韓併合(1910)の際に男爵を授与されたが辞退した。朝鮮の開化を理想として挫折した政治家。<著作>『兪吉濬全書』<参考文献>姜在彦『近代朝鮮の変革思想』

(森山茂徳)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ゆきっしゅん【兪吉濬 Yu Kil‐jun】

1856‐1914
朝鮮,李朝末期の開化派の政治家。字は聖武,号は矩堂。杞渓の人。朴珪寿の門下で開化思想に傾倒し,1881年には日本,83年にはアメリカに留学。85年に帰国してのちは開化派の一味とみられて自由を拘束されたが,その間,西洋の事情を紹介した《西遊見聞》を著し(1895),94‐95年の甲午改革では金弘集政府の中心人物の一人として諸改革に敏腕をふるう。96年2月高宗のロシア公使館播遷(ばんせん)に伴う金弘集内閣の崩壊とともに日本に亡命。

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世界大百科事典内の兪吉濬の言及

【留学】より

…朝鮮は1876年2月の日朝修好条規によって開国したが,新文物を吸収すべく81年5月には日本に紳士遊覧団62名を,12月には清国に領選使一行69名を派遣した。遊覧団の随員兪吉濬(ゆきつしゆん),柳定秀は福沢諭吉の慶応義塾に,尹致昊(いんちこう)は中村正直の同人社に残留し,最初の海外留学生となった。福沢と朝鮮との結びつきには,1879年秋日本に密航した開化僧李東仁が関与していた。…

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