兪吉濬(読み)ゆきっしゅん(その他表記)Yu Kil-jun

改訂新版 世界大百科事典 「兪吉濬」の意味・わかりやすい解説

兪吉濬 (ゆきっしゅん)
Yu Kil-jun
生没年:1856-1914

朝鮮,李朝末期の開化派政治家。字は聖武,号は矩堂。杞渓の人。朴珪寿門下で開化思想に傾倒し,1881年には日本,83年にはアメリカに留学。85年に帰国してのちは開化派の一味とみられて自由を拘束されたが,その間,西洋の事情を紹介した《西遊見聞》を著し(1895),94-95年の甲午改革では金弘集政府の中心人物の一人として諸改革に敏腕をふるう。96年2月高宗のロシア公使館播遷(ばんせん)に伴う金弘集内閣の崩壊とともに日本に亡命。1907年に帰国してからは在野人として興士団,漢城府民会を通じて愛国啓蒙運動を展開。1910年の日韓併合のとき男爵を授与されたが辞退前記のほか《矩堂詩鈔》などの著があり,韓国で《兪吉濬全書》(1974)が刊行されている。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「兪吉濬」の解説

兪吉濬 ユ-ギルチュン

1856-1914 朝鮮王朝の政治家。
哲宗7年9月25日生まれ。開化思想に傾倒し,明治14年(1881)最初留学生ひとりとして来日,慶応義塾にまなぶ。16年アメリカに留学。金弘集(キム-ホンジプ)内閣の甲午改革(1894-95)に中心的役割をはたす。金内閣の崩壊後,日本に亡命し,明治40年帰国した。1914年9月30日死去。59歳。慶尚道出身。著作に「西遊見聞」。

兪吉濬 ゆ-きっしゅん

ユ-ギルチュン

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世界大百科事典(旧版)内の兪吉濬の言及

【留学】より

…朝鮮は1876年2月の日朝修好条規によって開国したが,新文物を吸収すべく81年5月には日本に紳士遊覧団62名を,12月には清国に領選使一行69名を派遣した。遊覧団の随員兪吉濬(ゆきつしゆん),柳定秀は福沢諭吉の慶応義塾に,尹致昊(いんちこう)は中村正直の同人社に残留し,最初の海外留学生となった。福沢と朝鮮との結びつきには,1879年秋日本に密航した開化僧李東仁が関与していた。…

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