改訂新版 世界大百科事典 「甲午改革」の意味・わかりやすい解説
甲午改革 (こうごかいかく)
1894年(甲午の年)から翌年にかけて行われた朝鮮の政治改革。甲午農民戦争を機に出兵した日本は,日清開戦の口実として朝鮮の内政改革を主張し,7月23日には王宮を占領して大院君を擁立,金弘集を首班とする開化派の政権を成立させた。新政権は会議機関として軍国機務処を設置し,相次いで近代化のための改革法令を発令した。官制の改革による宮中事務と国政事務の分離,科挙の廃止,租税の金納化,通貨の改革,身分差別の撤廃,縁坐制・拷問の廃止など,改革は広範囲に及んだ。その多くは開化派の年来の構想に基づいていたが,日本の軍事力を背景とした上からの改革という性格は免れがたく,死文化したものも少なくなかった。日本はさらに井上馨を公使に派遣して大院君を退ける一方,12月,日本亡命から戻った朴泳孝を加えて新内閣を発足させ,翌95年1月にはこれまでの改革条項を再整理した〈洪範十四条〉を高宗の名で宣布,改革の促進・定着を図った。だが,日本による過度のおしつけは開化派政権への反発を強め,三国干渉ののち日本勢力が後退して7月初旬に朴泳孝が追放されると,改革は一頓挫を余儀なくされた。10月の日本人による閔妃(びんひ)虐殺を契機として再発足する金弘集の内閣は,なおも断髪令や新暦採用など風俗にも及ぶ急激な改革を続行したが,96年2月,国王のロシア公使館への播遷によって瓦解した。一連の改革は,朝鮮社会の近代化をすすめるうえでひとつの画期をなしたと同時に,日本資本主義の進出のための道をひろげるものともなった。
→開化派
執筆者:吉野 誠
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報