金弘集(読み)きんこうしゅう(その他表記)Kim Hong-jip

改訂新版 世界大百科事典 「金弘集」の意味・わかりやすい解説

金弘集 (きんこうしゅう)
Kim Hong-jip
生没年:1842-96

朝鮮,李朝末期政治家。慶尚道慶州の人。初名は宏集。号は道園。1880年,修信使として日本を訪問,明治維新後の発展の様子を視察して開化への意欲を深めた。このとき持ち帰った《朝鮮策略》(駐日清国参賛官黄遵憲著書)は,開化策の推進を説いて政府内外に論議を呼びおこした。84年の甲申政変の際,開化派政府の漢城府尹に推された。穏健的開化派ともいうべき立場の彼は,政変失敗後の閔氏守旧派政権のもとでも高位を占め続け,開化派勢力を温存させる結果となった。94年7月,日本の軍事力を背景に内閣を組織し,軍国機務処の総裁として甲午改革を推進した。翌年,三国干渉後に一時辞職したが,10月の閔妃(びんひ)虐殺事件のあと再び開化派政権を担当した。しかし,同事件の処理や断髪令の強行が反発をうけて反日義兵闘争に見舞われ,96年2月,国王がロシア公使館に移ったとき,景福宮に駆けつけたが,捕らえられて殺された。
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朝日日本歴史人物事典 「金弘集」の解説

金弘集

没年建陽1.2.11(1896)
生年憲宗8(1842)
朝鮮李朝末期の政治家。日本語読みは「きん・こうしゅう」。初名は宏集,号は道園。明治13(1880)年に修信使として訪日し,日朝修好条規(1876)という不平等条約の改正をめざした。日本の拒絶により目的は達成されなかったが,清国の外交官黄遵憲の著書『朝鮮策略』を持ち帰って国王高宗に上呈し,開化政策推進の契機とした。常に外交の前面に立ち日本との交渉,欧米各国との修好通商条約の締結に携わった。しかし開化政策は儒者や保守層の反発をよび,その矢面に立たされ非難された。壬午事変(1882)では日本と済物浦条約(1882)を結び,次いで北京に赴き朝中商民水陸貿易章程を締結した。甲申政変(1884)では時局収拾に努め,日本と漢城条約(1885)を議定した。日清開戦(1894)とともに日本の制圧下で初代総理大臣として内閣を組織し,甲午改革を断行した。三国干渉(1895)で親日派勢力が動揺すると辞職したが,閔妃が再び政権を握るや内閣を再度組織し,閔妃暗殺事件(1895)後は日本の力を背景に3度目の内閣をつくった。しかし閔妃暗殺事件と断髪令で義兵運動が起こり,この混乱に乗じて親露派は建陽1(1896)年2月11日,高宗をロシア公使館に脱出させて別に政府をつくった。彼は変を聞き宮殿に向かったが,途中で捕らえられ惨殺された。生涯にわたり終始国家非常の難局に当たった悲劇の政治家であり,俗に「雨天の下駄」と称された。<著作>『金弘集遺稿』<参考文献>森山茂徳『日韓併合』

(森山茂徳)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金弘集」の意味・わかりやすい解説

金弘集
きんこうしゅう
(1842―1896)

朝鮮、李朝(りちょう)末期、開化派の政治家。初名は宏集。号は以政学斎(いせいがくさい)。1880年修信使として来日、中国人黄遵憲(こうじゅんけん)の『朝鮮策略』を朝鮮に紹介して開化政策を主張し、複雑な国際情勢のなかで、82年の壬午(じんご)軍乱後の済物浦(さいもっぽ)条約の締結などに優れた外交手腕を発揮した。94年甲午(こうご)農民戦争、日清(にっしん)戦争が勃発(ぼっぱつ)し、朝鮮への日本の影響力が強まると、日本に依拠して内閣を組織し、自ら総理大臣として急進的改革である甲午改革を行った。しかし、断髪令施行や、95年の日本による閔妃(びんひ/ミンピ)殺害を契機に民心を失い、96年、ロシアの勢力が増大して、国王高宗がロシア公使館に移り親ロシア内閣が成立すると、失脚し捕らえられ惨殺された。著書に『以政学斎日録』がある。

[山内弘一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金弘集」の意味・わかりやすい解説

金弘集
きんこうしゅう
Kim Hongjip

[生]憲宗1(1835)
[没]建陽1(1896)
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) 末期の政治家。慶尚北道慶州市出身。字は景能。号は道園。諡は忠献。幼名は宏集。高宗 17 (1880) 年修信使として訪日。同 19年,壬午の軍乱ののちの済物浦条約には全権として日本と交渉,甲午農民戦争以後日本勢力を利用して領議政 (首相) となり,急進的な改革を行なったが,親露派に殺された。著書『以政学斉日録』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金弘集」の解説

金弘集 キム-ホンジプ

1842-1896 朝鮮王朝の政治家。
憲宗8年7月6日生まれ。1880年(明治13)修信使として来日。1882年全権副官として日本と済物浦(さいもっぽ)条約をむすぶ。日清(にっしん)開戦直後,日本の後援のもと開化派政権を組織して総理大臣となり改革を断行したが,閔妃(ミンビ)暗殺事件後の混乱の中で親露派政権の成立により失脚。建陽元年2月11日民衆に殺された。55歳。号は道園。

金弘集 きん-こうしゅう

キム-ホンジプ

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世界大百科事典(旧版)内の金弘集の言及

【甲午改革】より

…1894年(甲午の年)から翌年にかけて行われた朝鮮の政治改革。甲午農民戦争を機に出兵した日本は,日清開戦の口実として朝鮮の内政改革を主張し,7月23日には王宮を占領して大院君を擁立,金弘集を首班とする開化派の政権を成立させた。新政権は会議機関として軍国機務処を設置し,相次いで近代化のための改革法令を発令した。…

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